第412回
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  私の従軍記 その一
文 郷土史家 佐々木 一

 今年も八月、戦後六十七年目の終戦の日がきます。

 昭和十九年は春から雨少なく、六月の田植えになっても降雨なく百年振りの大旱魃に見舞われた。田植えが出来ず渇いた土に苗を挿して、薬缶で水をやる仕末であった。そのため水田に夏草が茂り、秋には反収一俵か二俵の収穫でヒコバエの様な穂に涙したものであった。そして十二月七日昼過ぎに起きた東南海地震は四日市の石原産業の煙突が折れて曲がるほどの大ゆれで浜手は大被害を受けた。その様な大地震の後は、雪降る十五日、愈愈(ゆゆ)入営の日が訪れた。軍服に身を包みゲートルを巻いて玄関の敷居をまたぎ、老母に「行ってくるでなぁ」と一言、最後の挨拶をする。母は黙して顔を袖で被い隠す。木戸の日の丸の旗の下をくぐり村の公会所前の観送台の上に立つ。公会所の庭にぐるりと輪になって見送る村人に「後に残る留居家族のことをよろしくたのむ」と集まる村人に惜別の挨拶をする。区長の先導で役場へ向かう。町長室へ伺い黒澤隆吉町長に挙手の敬礼をして三十三連隊へ入営を報告する。町長をはじめ、在郷軍人、国防婦人会、青年学校、小学校生徒、それに多数の町民の歓呼の声と日の丸の旗の波に送られ、菰野駅を出発する十時であった。その後久居駅に到着、父に付き添われ久居歩兵第三十三連隊の営門を潜(くぐ)る。十二月十五日に入営後は、班別に分割されて、昼間は軍事訓練を受け、夜間は軍人勅論や精神の学科などを受けた。同二十日最後の面会が許される。十時から十二時まで二時間営門を出て松林の中の筵の上で、父母、妹が家から来て、母の手作りの寿司、牡丹餅を食べる。話すこと山ほどあれど言葉にならず、別れのときが来て老い母が杖を曳いて石橋の上で何度も振り返り帰りゆく。今生の別れになるや。同二十四日、往路の先は北支派遣軍第百四師団独立歩兵第四〇一大隊第二中隊に配属と決定。この朝、払暁(ふつぎょう)五時久居営舎を出発、阿漕浦駅へ向かう。下関行きの軍事列車に乗る。現地母隊から出迎え引率の真島曹長の指揮下に入る。二十五日朝、下関港にて関釜連絡船に乗船、冬の荒れ狂う玄海灘を敵の潜水艦を警戒して釜山に無事上陸する。すぐ半島を縦断する。朝鮮鉄道に乗車、大邱(たいきゅう)、大田(たいでん)、水原(すいげん)、京城(けいじょう)そしてへ平壌(へいじょう)、安州(あんしゅう)、新義州(しんぎしゅう)に至る。鴨緑江(おうりょくこう)の大鉄橋を渡る。対岸は安東ここから満州なり。奉天に到着、ここで南満州鉄道に乗り替え満州平野を南下して錦州(きんしゅう)を経て山海関(さんかいかん)に到着。いよいよ北支である。天津を経て北京へ、赤や青の甍(かわら)の美しい都である。北京の都をあとに居庸関(きょようかん)から五台山脈を抜け、永定河(えいていが)沿いに西下、大同に至る。ここは雲崗(うんこう)石仏と石炭の産地。この大同にわが師団司令部が置かれていた。なお南下して山西省朔(さく)へ到着。年が明け同二十年一月元旦である。十二月二十四日久居を出て丸八日間を費やして目的地へ着いた。朔は山西省の要地で、平原を北へ行くと大同、南は太原、山西省の省都である。朔の市街は周囲を高い城壁で囲い、城外は荒涼たる原野である。この大隊本部のある朔で初年兵教育を急造の兵舎で受ける。紀元節の二月十一日、須藤大隊長の検問を受け、所属原隊の駐屯先、平魯県(へいろけん)へ出発する。驢馬を数頭雇いその背に寝具、食糧を乗せ、背嚢(はいのう)を背負い三八式歩兵銃を肩に道なき道を驢馬のあとに一列に隊列を組み歩む途中、峨峨(がが)たる山の上で野営する。翌十二日中台隊本部のある平魯県城に夕方入城する。ここは兵舎は無く民家を借りて宿泊する。ここでも激しい戦闘訓練を受け、夜は分哨の歩哨警備に立つ。平魯県あたりの住民は春から夏は高麗(こうらい)、馬鈴薯(ばれいしょ)を作り鶏と羊を飼い、冬季は農作業は出来ず冬眠状態の暮し、山に草木は無く燃料は石炭の露天堀りで得ている。家は南面した土の練瓦積みの家に住む。人の顔は我々と同じ、温和で情に篤い。

(その二へ)