第413回
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  砂糖づくりのこと
文 郷土史家 佐々木 一

 たくさんのおいしいお菓子、チョコレートに、ケーキ。今はなんと甘いものがたくさんあることでしょう。昔は甘いものといえば、お饅頭やあんこの入ったお餅ぐらいでした。

 「見よ東海の空明けて旭日高く輝けば」と愛国行進曲がラジオから流れる昭和十八年八月のある朝のこと、家のおばあさんが「今日は、いばら餅を作ってやろかいな」とかまどの前でぽろりともらす。なかなか手に入りにくくなった砂糖を使ったいばら餅のなんとも甘い味が忘れられません。

 昔の家庭では味噌や醤油は家で作っていましたが、砂糖は家では作れなかったので、昔の料理はどちらかというと塩辛いものが多く、今ほど甘い砂糖を使った料理はありませんでした。料理の甘みといえば、カボチャやニンジン、サツマイモなど、野菜の甘みでした。それでも、饅頭のあんこにはもちろん、料理に砂糖を使うこともありました。砂糖は大きな樽で台湾や沖縄から送られてきて、それを東町の店に買いに行きました。砂糖は黒砂糖で大きな樽の中でカチカチに固まっていて、それを金槌やノミで割って量り売りにしてもらいました。この頃、普段に使う砂糖は、黒砂糖で、白い砂糖は黒砂糖に比べて高級品で「さんぼう白」といってお中元やお歳暮の贈答品として使うことがほとんどでした。この白い砂糖は村々にあった和菓子を作って販売する饅頭屋がお菓子や饅頭を作るために多く扱っていましたので、そこへ買いに行って「さんぼう袋」という袋に入れてもらってお使いにしました。

 さて、昭和十二年七月北京郊外で日中両軍衝突、同十三年国家総動員法公布、同十四年には米が強制買い入れされました。同年四月、米穀配給統制法公布、同十五年には町村に部落会、都市部に町内会、もっと小さい単位として隣組が整備され、そしてそれらの会の中の意思疎通を図るための寄り合いとして、定期的に開催される常会が発会しました。同年六月には砂糖、マッチなどの生活必需品が切符制となり、食堂、料理店での米食提供の禁止、同十六年には遂に対英米との開戦、また物資統制令の公布。同十七年には食塩、味噌、醤油も切符制となりました。このようにさまざまな制度が、戦争遂行のために、また戦争の余波のために整備されていき、米などの主要な食料も配給制になり、食糧事情も悪化していきました。

衣料切符のコピーの写真
衣料切符のコピーの写真

 そして、菰野でも東町で売っていた家庭用の黒砂糖や「さんぼう白」も自由に売ることも買うこともできなくなりました。このことに困った農家は、役場からサトウキビの配給を受け、稲作をしている田の端や畑でサトウキビの栽培を始めました。そしてそれを絞って砂糖を精製するために、各集落では川の堤防や広場に砂糖の絞り場を設けました。サトウキビは熱帯、亜熱帯性の植物で、高さが三、四メートルにも成長します。それを株元で切り、泥を落として、洗って適当に束ね、絞り場に運びました。西菰野では当時からお茶の栽培が盛んで、そのお茶の仕事に電動式のモーターを使っていたことから、それを動力として利用し、鋼鉄製の藁打ち機を転用して、藁打ちの重さと圧力でサトウキビから砂糖液を搾り出しました。搾り出した砂糖液は甕に一旦入れ、土のかまどに鉄の大釜をかけて、そこに砂糖液を入れて熱しました。これが固まると黒砂糖になり、これを常会単位で保存して大切に使いました。

 今、甘い甘い砂糖いっぱいのお饅頭をいただきながら、砂糖が貴重だった時代のことを思い出しました。