第414回
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  横山家の歴史 その一
文 郷土史家 佐々木 一

 この度、中菰野に残る旧家横山家のすばらしいお庭を拝見させていただく機会に恵まれました。そこでこの横山家の遠祖を尋ねてみました。

横山家の遠い先祖は、伊勢の国の国司北畠家に仕える武士でありました。主家の北畠氏は、南朝方の重臣の名門で、戦国時代には伊勢国に勢力を伸ばしました。横山家もこの北畠氏の重臣として、美杉の下之川に屋敷を持ち隆盛を誇っていました。しかし北畠氏は同族との内紛や隣郷の木造家に不意を討たれるなど、家の勢力が衰え織田信長に攻められて大名としては滅びてしまいました。この時、織田方につくように促された末の弟だけが生き延び、屋敷を構えていた下之川の砦を捨て、北伊勢の要所であった菰野へ至りました。

江戸時代から残る横山家の門
江戸時代から残る横山家の門

その後、横山家は西菰野の平岡神社の神官となり、横山但馬守重次(よこやまたじまのかみしげつぐ)と名乗っていました。そして後に平岡神社の境内地の下、中菰野に屋敷を構えて代々神官をつとめ、中菰野村の名主となりました。さらに後には菰野藩へと出仕する者もあり、なかでも横山惟中(いちゅう)は、藩の儒学者 竜崎致斎に入門して藩校の蔵書、古事記、日本書記などの歴史書を繙(ひもと)き、伊勢の古塚、古墳の研究を行いました。その記録から『山陵誌』『家妙雑誌』なども綴っています。

惟中は明和三年(一七六六)成人して藩へ出仕して祐筆(ゆうひつ)見習いを命ぜられ、父の三楽が死亡すると徒目付(かちめつけ)役を命ぜられました。その頃藩債が累積して莫大な額となり、その返済と財政の建て直しに取り組みました。このなかで惟中は藩財政の建て直しの方策として藩の重役に対し、「愚直(ぐちょく)平治略」を起草して差し出すとともに、中菰野村で代々名主を務めて、財をなしていた横山家の私財も多く投じています。

また郷土史に非常に関心が深く、研究熱心であった惟中は藩の勤めの余暇を惜しみ郷土史の調査のために近隣を歩いてさまざまな調査研究を行いました。なかでも笠戸の白鳥塚、能褒野(のぼの)の王塚、長沢の武備塚などを歴訪して、三つの中いずれが日本武尊(やまとたけるのみこと)の御陵(みささぎ)か考証をしています。

宝暦八年(一七五八)伊賀の城代、藤堂元浦が「三国地誌」を著しました。このうち伊勢国の石薬師は萱生由章(かようよしあき)が調査執筆に当たっていますが、惟中は由章の死後、石薬師の由章の家を訪ね、自筆の稿本を借り受け筆写しています。それは朝明郡内の歴史をまとめた「朝明賦」と題されたもので、惟中が写筆したものは、はじめ伊勢の「林崎文庫」の蔵書になり、現在は「神宮文庫」に保存されています。

さてこの横山家ですが、さすがに名家だけあって惟中より後も多くの傑物を輩出しています。

※「横山家の歴史」は三回のシリーズで掲載します。

見事な枯山水の庭
見事な枯山水の庭