第416回
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  横山家の歴史 その三
文 郷土史家 佐々木 一

 この秀吉(ひできち)氏が京都の東福寺など多くの寺社などの庭を手掛けた有名な作庭家である重森三玲(みれい)氏に依頼して、昭和四十三年に中菰野の本宅に枯山水の見事な庭園をお造りになりました。名古屋の名城椿会で会長を務めた秀吉、ひさ尾夫妻は春三月の椿の花が咲く頃には、この会の会員を連れ立って、中菰野の本宅を訪れ、椿の花や庭を観賞されました。また、この庭園を作庭するために重森氏が菰野にお越しになった際に私も本宅に招かれて重森氏とお話しする機会があり、北畠庭園、藤原の聖宝寺の庭園など三重県の有名な庭園について説明を申し上げました。重森氏はその頃すでに高齢でしたが、各地の庭園のお話を熱心に聞いてくださり、それは研究熱心な方で、庭造りにかける情熱は凄まじいものがありました。やはり、その道の一流の方とはこういったものかと感心させられました。

 ここで、話は少し遡りますが、江戸期から横山家の菩提寺は西菰野の正念寺でしたが、その開基は山城国の市場の城主が戦に敗れ、近江から鈴鹿の山並を越えて伊勢の菰野で庵を結び、里道場を開き、真宗の教えを広めたのが始まりです。その後、横山家も正念寺の開基が武士であったことを知って、正念寺の一檀家となりました。昭和の初め頃に本堂の南に鐘楼を新調し、鐘楼堂を建て直した際も横山家は多大な寄進をなさりました。そしてこの鐘楼堂を刻んだのは、かじゅ大工とあだ名され、人々がその腕を褒め称えた、昭和最後の名人大工鵜川原村の服部嘉十郎なる有名な堂宮大工です。

横山氏と縁の深い、中菰野の智福寺
横山氏と縁の深い、中菰野の智福寺

 もう一つ、横山家と縁の深い寺として中菰野の黄檗(おうばく)宗のお寺、智福寺があります。この寺は土方氏が菰野のお城の西の守りとしていましたが、その維持は村寺として横山家が名主を務める中菰野の村民に任されていました。この寺の普段の供養は横山家からの多大な善意に支えられていましたが、寛政七年(一七九五)には、智福寺に中菰野村の民が寒念仏で浄財を募り、画僧月僊(げっせん)に依頼して「仏涅槃図」を奉納することとなりました。この時もこの寒念仏だけでは浄財が儘ならず、横山家から相当の支援がありました。この「仏涅槃図」は町文化財の指定を受けています。

 終戦後、この智福寺の住職は尼僧が務めておられましたが、寺はそれまでに比べ寂れていました。そこで、中菰野の横山円一氏を中心として寄り合いを行い、秀吉氏とも相談して、黄檗宗の本山に住職の派遣を依頼したところ、黄檗宗萬福寺の前管長である玉田(ぎょくでん)和尚自ら住職としていらっしゃいました。その後玉田和尚の教えを乞おうと、多くの人が寺に集まるようになり、寺勢もよくなりました。そしてこの様な玉田和尚とのご縁もあり、先の秀吉、ひさ尾夫妻も智福寺の年中行事の際には度々、智福寺を訪れ、年中行事の謂れなどをお話させていただきました。

西菰野の正念寺の鐘楼。鐘楼には「昭和四一年三月 施主 横山秀吉」と彫られています。
西菰野の正念寺の鐘楼。鐘楼には「昭和四一年三月 施主 横山秀吉」と彫られています。

 横山秀吉氏が残した立派なお庭を眺めると、菰野町の近世から昭和の歴史に大きな足跡を残した横山家の隆盛を見てとることができます。

※横山家の庭は非公開となっています。