第417回
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  地下井戸
文 郷土史家 佐々木 一

 「地下」とは、中世の村の民百姓が集まるところを呼んだもので、地下井戸とは村の共有の井戸のことを言います。

 菰野には慶長五年(一六〇〇)土方雄氏(かつうじ)が初代藩主に命じられ、同六年(一六〇一)に初めて就封しました。一万石の藩でした。雄氏が菰野へ来て七四年目の延宝二年(一六七四)に中菰野村から届が出て地蔵新田などの新田開発がはじまりました。菰野藩領内では他に、上の方の茶屋の上、片倉新田が寛文十年(一六七〇)に西菰野村から届が出て新田開発されてております。また江戸初期はに伊勢国でも桑名藩が多度山の南面を開発して灌漑(かんがい)用の溜池作りを行っております。

 さて地蔵新田に話しを戻すと、地蔵新田は元々三滝川の本流へ入る、鳥井戸川と三滝川の合流点に位置して北側の大羽根川原とつながる三滝本流の氾濫原でありました。大水がでると決壊する箇所で石造りの双体地蔵が祀られていましたが、現在は智福寺の地蔵堂へ移されております。

 地蔵新田の新田開発が成功したのは、延宝二年(一六七四)ですので、今から三三九年前のことでありますが、新田開発に当たって、まず三滝川の南に広がる平坦地に生えている松や雑木を伐採し、菰野藩から宅地用に一反ずつの縄張りを受けてました。それから火除け地、野菜地の割り当てを受けて開墾にとりかかりました。開墾の際に出てくる石は湯の山街道のくろに出して積み上げておいて、家の土台石、井戸の積石や道の積石に当てました。

 それから村づくりではまず、西の端に山の神を祀り、愛宕明神を勧請して祠を建てました。次は新しい新田開発村の生命の元、井戸を掘ることを計画、本村の中菰野の庄屋を頼み、村の仲間で利用する地下井戸の位置を決めてもらいました。これは新田開発村には庄屋がなかったためです。地下井戸の位置を決める手順は、村人がもめないように、百姓惣代でもある肝煎が新田開発の差配をして、村づくりのための村絵図を湯の山道を中心に描きます。夜番道を西から三戸毎に描き、次に地下井戸の位置は「北坪の用水路」が北垣戸へ流れる角の鉤(かぎ)の手、南の組と中の組と北の組との中心に当たる所に黒墨を落として印を付けました。

 地下井戸を掘るに当っては、地蔵新田は菰野の西の端で地下水位が低く井戸を八間ぐらいも掘る必要があり『井戸一つと母屋一戸と掛け合う』と言われるほど手間や費用のかかるものでした。こうした訳で地蔵では地下井戸をいくつも掘ることができず、村で一つの地下井戸となりました。

地下井戸

 深井戸を掘ることができる井戸掘り職人は菰野には無く、多度山の向こうの美濃の石津あたりから、職人が多度山の二の瀬峠を馬で越えて、通いか泊まりで来て作業にあたりました。井戸は湧き水の出の少ない春の彼岸の頃までに完成の段取りをつけて工事を急ぎました。井戸の穴掘りと石積みと出水の仕事が手順よく進むと井戸縄打ちの作業が待っています。井戸縄は早稲の野田種の藁を寒の内に池に漬けて、藁のあくを抜いて乾かして使います。井戸縄を綯(な)うのは、村中の男の老人の役目で、一箇所に寄せて「井戸縄打ち」の作業を行います。左に縒(よ)りを掛けて綯いあげ、その太い縄のひげを鋏(はさみ)で刈り、藁で擦ります。この縄は直径およそ一寸で、これをさらに六本まとめて縒り合わせます。井戸縄は必ず一本予備を作り残しておきました。毎年秋の彼岸の中日に「井戸縄打ち」の作業を行い、その後かしわご飯を炊いて集った男衆と子どもらに振舞いました。