第419回
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  菰野の水事情
文 郷土史家 佐々木 一

 三滝川上流の湯の山の大石公園の上部に位置する長石谷で三滝川の急流が浸食作用によって花崗岩の川底を掘り、四角の井戸上の穴があいて水が溜まっていましたので、菰野の古老は、そこを「一の井戸」と呼んでいました。さらに三ノ瀬の茶店北側の浸食穴を「二の井戸」、神明橋の上の浸食穴を「三の井戸」と言い、この上流からの三つの浸食穴を「一、二、三の川井戸」と総称していました。以前にこの歴史こばなしで紹介した川井戸とは異なりますが、これらの川の中の浸食穴には、日照りの時でも水が残っていたので川井戸と呼んだのでしょう。

 盛夏に日照りが続いて三滝川の流水が枯れるとお城の郡代官が三滝川をはじめ大小河川の流水を検分します。この検分の結果、川からの水がなく飲み水にも事欠くと判断すると「川井戸の水くみ御用」のお触れを出し、まずもって、飲み水の確保を優先し、病人、老人、子どもの飲み水に留意するよう命じ、運搬用の牛二頭と水桶四つを用意し、人員六人を揃え、「一の井戸」「二の井戸」「三の井戸」への水くみにあたりました。しかし、牛に一斗樽を四つ着けて運ぶのですから、今の輸送力とは比べ物になりません。それは大変なことでした。

 また城下にも飲み水の確保の命令が出て、殊に城下の病人、老人用の飲料は御在所岳の頂上の湧水が確保されましたが、険しい道のりを登り、水を担いで下りてくることは難儀なことでした。このように貴重な水でしたので、飲料用の水は菰野藩によって厳重な管理、監守が行われました。さらに飲料の確保、薬事用の水の確保として、城下町には東町筋を中心に川原町、中町、庄部の各辻に深井戸が掘られました。この井戸は昭和十九年の大日照りの際にはエンジンポンプで汲み上げても汲みきることができないほどの湧水量で、水不足で困った稲作をおおいに助け、中には「お殿様の水が助けてくださった」と水に手をあわせて喜ぶ人もいました。

 このように菰野地区の特に西部は水を得るために、深井戸を掘ったり、日照りの時には山まで水を汲みに行ったりという苦労がありましたが、一方鵜川原、竹永辺りは非常に水の豊富なところで、浅井戸であるのに水をなみなみとたたえており、驚いたことがあります。

 この水の豊富さは地名や米の収穫高に影響していますので、少し紹介してみましょう。

 かつて太古の時代にはこの辺りは東海湖と名がつく淡水の潟があり、それが陸地化して菰野平野が生まれました。潟が陸地化する際、低地で水が引かず池状になっていたことから、鵜川原地区の「池底」の地名がついたようです。

 また「吉沢」も竹谷川からの自噴の清水が湧いておりこの地名の語源となったようです。このように水が豊富で灌漑用水に恵まれた鵜川原地区は地味も富んで、良質の米が多く収穫されたことから江戸期の菰野藩領の時代には「藩のお納戸」と呼ばれ、大切にされていました。

 さらにその北に広がる竹成、永井も平坦な土地柄で水が豊富でした。その竹成では篤農青年松岡直右衛門が竹成米を完成させています。この竹成米は収量も非常に多く、1反に十俵の収穫があるほどであったことから「倒十」の名で呼ばれ、菰野の関取米と共に「伊勢米」の名で伊勢参宮者に知られるようになり明治三十年には、関東平野で栽培されるようになりました。それが稲のイモチ病に強く米質も良く全国の水田で栽培されるようになり、伊勢米の名を高めました。一方、永井では井出神社の辺りが朝明川、杉谷川、田光川の合流する付近にあたり、水量は豊富でしたが、日照りもあり、洪水の多い地域でもありました。このため灌漑用水には大きな苦労があり、朝明川に杉谷川が合流するところで取水し、朝明川の川底を通して、取水する埋樋取水法という高度な技術が見られます。