第420回
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  乙女川
文 郷土史家 佐々木 一

 なんと清らかな名を付けてもらったものだろう。その水源は、寺池、善兵池など三滝川の湧水池の水を集めて菰野地を西から東へと流れて、福村まで来て「乙女川」と呼ばれ、神森まで流れて、やがて三滝川の本流へ流れ入る小河川であります。

 昔は水路がコンクリートで補強されずに、堤、土手に草が生え、春から初夏にかけて花が咲いてくれますので、誰言うということなく「乙女川」と呼ばれるようになりました。

 この川は東菰野村の郷蔵の北を流れていました。郷蔵とは各村に一棟か二棟建てられてあった米蔵で、藩への年貢米を収納するための頑丈な蔵で、鍵は東菰野村の庄屋が預かっておりました。

 さて、菰野城に東町門、南町門、北町門と三つの御門があって、門には二名ずつの足軽の門番が厳重に詰めておりました。北門を出た方は川原町通りと呼び、お城へ出入りの大工、左官、屋根葺きなどの職人の住まう所でした。また、職人町から足軽町、仲間(ちゅうげん)町が続いて、川原町の職人町の連なる辻に柱池と呼ぶ池が掘られ、この池はお城のお殿様が鯉、鮒の釣りをなさる池でした。

 話を戻して、「乙女川」の元の名を言えば、「乙女川」が流れている所、つまり郷蔵から少し北へ行った所に福村池が庄部筋との境にあり、ここに堰(せき)が設けられていました。そしてこの堰から東の川はお殿様の「お留め川」と言われていました。「乙女川」はこの「お留め川」が明治以降いつしか「乙女川」と呼ばれるようになったものです。元々、お殿さまの「お留め川」はこの福村池に設けた堰で雨水をせき止め、増水を待って郷蔵の米俵を出して高瀬舟に積み込み、四日市の菰野藩定めの米問屋へ運ぶために利用されていました。昔の三滝川は橋を架けることはご禁制で、橋は架けられず、舟の運行に邪魔になるものはなく、四日市浜の河口で米問屋に渡したそうです。

現在の乙女川
現在の乙女川

 三滝川に橋が架かっていなかったことについてもう少しお話をすると、菰野藩領には、巡見街道が通っており、この街道は三滝川を渡ります。このため、幕府の巡見使が通るときには杭を打って橋げたとし、杉の丸太を半分に割ったものをつなぎ合わせ、臨時の橋を設けました。この橋の普請は福村の庄屋に命じられており、南の金渓川は宿野の庄屋に命じられていました。

 三滝川に木製の橋が架かったのは、吉沢橋が明治二〇年の、庄部橋が明治二十三年のことであり、それより昔は一般の民はわらじのまま足を濡らして渡っていました。

 さて、菰野の近隣を見てみると員弁郡の村々も菰野より大きい高瀬舟を用意して阿下喜に川港を備えて御用の年貢米を桑名まで運んだとのことです。員弁川は水量も豊富で高瀬舟も大きく、運搬量も多く材木専門の船頭もいて材木、薪、木炭、野菜など桑名までさまざまな物資を運ぶことに大いに利用されたようです。そして桑名まで荷を運んだ高瀬舟の帰りは荷を軽くして高瀬舟の先に綱を結び、人の力で引っ張りました。このため、員弁川の堤では草や雑木が刈られ、通行しやすくしてあり、青松や赤松が植えられていました。また三滝川は橋を架けることが禁止されていましたが、員弁川は普段から流水量が多く、桑部橋などの橋が架けられていました。