第421回
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  乙女川周辺の話
文 郷土史家 佐々木 一

 乙女川の上(かみ)の方の大字菰野地内の中の集落名として「片倉」「地蔵」がありました。近年は変わりつつありますが、江戸期の文化、文政の頃、菰野藩の九世義苗(よしたね)の代、菰野城下の灌漑(かんがい)水路の改修整備事業があり、この改修計画の「お触れ」で片倉、北坪、分木(ぶき)、中坪、西高原(こばら)、大垣内(おおがいと)、大槌を通る灌漑水路と分水工が細かく設工されて、各分水工の切り口が定められ、片倉溜(ため)、丸池、奥溜の役員と各水路の年番と湯徒などの責任者と年間の清掃奉仕作業の要項が定められました。

 この乙女川の源流は片倉に設置された大分水の北坪にあって初夏の五、六月の田植え前の代作りの灌漑水と、その前の苗代作りの用水の田植え前の代作りと、用水の必要時期前に西、中、東菰野村の庄屋を通じて藩の代官所へ用水作業時期と田植えの終了時期を届け出ることが義務付けられていました。

大小の分水点と各水路の保護維持に当たる湯徒は藁(わら)で編んだ「小みの」を着用しており、この「小みの」は用水路の管理の責任者たるを表徴しておりました。

 この他、特に文化文政の頃のお定めのことを話すと、用水池の管理も先の「お触れ」で守られていました。殊に伝染病の発生、大火災の発生、地震、台風の時などの大災害の発生の折は菰野藩から役人が出て応急の警護に当たりました。

 さて乙女川上流部から周辺の地名や逸話について紹介してみましょう。

馬が通ったであろう小道の跡
馬が通ったであろう小道の跡

 地蔵新田集落の東側に「櫻野」と呼ぶ、桜の林がありました。その北側に「柳林」があり、ここは三滝川の内堤防の南側にありました。そしてその東側に「松尾」と呼ぶ松の林と杉の混合林がありました。ここは菰野藩の藩士の乗馬訓練場でお城からの入口は今のNTTの電話交換所の北側にあり、昔、馬が通った細い道が残っています。

 また馬場の西側に松の古木があって、その馬場の名が松尾の小字名で残っていました。この松の古木は明治のご維新後に京都の東本願寺の御本堂の再建普請のおりに本堂の棟木を支えるための「牛の木」に見込まれて献納することになり、枝を切り払い、そりに乗せられて綱をつけ、北裏の三滝川へ引き出して大雨の日に川に浮かばせて四日市の川尻まで流して、そのあと、汽船に引かして淀川をのぼり本堂の牛の木になり、今も本堂の屋根の支えとなっています。

 また、寺池の跡は菰野保育園になり、その東のお城の北側の「椿ヶ原」には菰野藩一世雄氏(かつうじ)公の夫人玉雄院(ぎょくゆういん)の隠居所がありました。

寺池の跡に建つ菰野保育園から椿ヶ原方面を撮影
寺池の跡に建つ菰野保育園から椿ヶ原方面を撮影