第423回
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  千草石工の残した大石燈籠
文 郷土史家 佐々木 一

 千草は良質な花崗岩の石材が豊富に埋蔵し、江戸期から神社の鳥居、燈籠(とうろう)、手洗鉢など多くの石造品が造られてきました。江戸中期に大阪泉南地方で良質な和泉石の採石が幕府により禁止され、優秀な石工の技術が泉南地方で発揮できなくなりました。このため、石工たちが石屋の工作道具である石槌、鑿(のみ)を手に家族を同伴して参宮街道を経て桑名城下へ移住してきました。そして当時同じ領下であった、千草、杉谷、田光へも移り住み、その優れた技術を伝えました。その技術の高さを伺わせることとして、千草、杉谷の石工が多度大社の本社の神明燈籠を制作しており、田光の石工は員弁神社の神明燈籠を制作しています。

 ところで、江戸時代に伊勢信仰が盛んになり、庶民の伊勢参りが大変な勢いで流行しました。人々に「一生に一度はお伊勢詣りに」の気持ちが高まり、村には伊勢講が生まれ、年に一度は村から参るという代参制ができました。こうした伊勢信仰から参宮街道沿いにある村々では競って、石燈籠を辻々に建てるようになりました。

千草の大石燈籠
千草の大石燈籠

 そして千草でも石燈籠を建てようという話が持ち上がり、石工の技術の粋を集めた大石燈籠を明治二十五年九月十七日に村を挙げて造り上げています。この燈籠は現在も「千草のとうろうさん」として区民に親しまれています。この燈籠造りの苦労話を千草の古老は次のように話してくれました。

 千草には石屋が多かったので、この近郷にない大きな石燈籠を造ろうという企画ができて、村中かかってやりました。なにしろ大きな燈籠なので、それを支える地固めが大変で、幾日も幾日もついたそうです。工事は明治二十二年頃から始めて、石も切り出して来て、それを引き出し、毎日、毎日さまざまな村総出の代働(だいど)が続いたので、村が白くなるという声が高まり、途中で一服したこともありました。村が白くなるというのは、あまりに代働が続いて、田畑の仕事ができず、人が不健康で青くなるように、村人が疲れきって、村に力がなくなってしまうということです。この証拠に地固めの工事をしていた年は、雨が多く、石燈籠造りに余りにも一生懸命になっていたので、取り入れの麦や菜種をたくさん腐らせてしまったという話を聞いています。地固めの後、切り出した石を段々に上に積み上げるには一重据える毎に土俵を築いて土を盛り、万力梃子(てこ)を使いじりじり引っぱり上げました。最後の一番上の屋根を置くとき万力の綱がはずれ、思うところに納まっていないそうですが、そのままにしておきました。その後何回も地震に遭っていますが、一寸の狂いもないことは不思議で仕方がありません。

 今と違って、機械のない時代です。地固めや朝明谷から大きな石を切り出し、運んできて石を削り、積み上げるのは大変な工事だったでしょう。

 それから、九月十七日を「燈籠まつり」と定め、完成した燈籠の前では、嘉例踊りが踊られ、相撲や俄(にわか)芝居が催されました。