第424回
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  母屋の普請
文 郷土史家 佐々木 一

 昭和三年、昭和天皇のご即位の大礼が国を挙げて行われることになりました。菰野町も菰野村から菰野町に大きくなる準備が整えられていました。菰野町になって役場の建物が完成しました。この建物は木造でしたが、ガラス障子の入った明るいものでした。また菰野小学校も二階建ての本館ができ、その北側に町立実践女学校が開校して、教育施設が充実しました。この頃、田にお蚕の餌になる桑の葉をとるために桑を植えることが多くなり、棚の中でお蚕を飼う養蚕が盛んになりました。そして自宅を改築したり、建替えて養蚕の規模を拡大することがはやりだしました。

 農家の南川さんは前年に繭(まゆ)を四十八貫目とることができ、二五〇円の収入を得ました。この頃、米一俵が五円か六円でしたので、繭一貫目は米一俵の値に相当したようで、当時の物価を考えると、結構な収入だったことでしょう。このことがきっかけとなり、南川さんは母屋の普請を計画しました。そして吉沢村の妻の兄に相談したところ「金のことは心配するな」とのことでしたので、いよいよ母屋の普請を決心しました。母屋に使う材木は四日市の堀木材木店で買います。この材木は米国の森林に生えるまっすぐなモミの大木を輸入したものです。今でこそ輸入材も多く見られますが、この頃も輸入材は日本の松材や檜材よりも軽くて安いので使われていました。輸入材は船で四日市港まで運ばれ、大正一二年に電化された四日市から湯の山まで通じる軽便鉄道の貨車に積まれて運ばれてきます。湯の山駅からは運送業者である早水運搬車の牛車に載せ替えられ、牛の「モー」という鳴き声とともに運ばれてきました。

 材料の準備と同時に母屋を建てる準備も必要です。まず古い母屋を取り壊すことを急がねばなりません。藁(わら)屋根の古い母屋は村の親類を頼んで藁をはぎ桑畑の畝(うね)の間に敷き、細かく切って壁土に練り込む、すさにします。古い家の柱や梁は、新しい母屋の材料にするため三男(みよ)大工と呼ばれた名人の三男三郎の手を待っています。古い家の材木も捨てるものは何もありません。

 次に地固めです。古い家の土台石は裏の川原の御影石です。これをきれいに取り片付け、その敷地を地突きします。この地突きは村に一人はそれに慣れた長老がいるので、地鎮祭の後、村の若者を頼んで長老の指示のもと、地突き石におづなを付けて東北の隅から順番に突き固めます。長老が地突きの伊勢音頭を唄い、それに若者が合わせて唄い地を突き固めるので、新しい家の普請を祝うように地突きの唄声が村中に響きます。

建築中の菰野小学校
建築中の菰野小学校。この本館も三男大工の手によるものです。

 その後、千草の石屋が来て水準器に合せて石を据えていき、家の基礎が定まると、三男大工の仮の仕事場と材木置き場が組まれ、四日市の堀木材木店から運ばれた諸材料が材木置き場一杯に積まれます。そして三男大工がそれこそ職人芸で建舞(たてまい)を済ませて、立派で頑丈な家を完成させました。

 今でも建舞の時にはお祝いを贈ることが多いですが、この頃のお祝いもぼた餅や饅頭、餅や酒などでした。この他、縄や竹、米なども贈りました。

 さて、この三男大工は、私のことを子どものようにかわいがってくれました。春は松露採り、秋はマツタケ採りやキシメジ採りに私を連れていってくれ、晩には妻君が、それらを調理し、ごちそうしてくれました。あの楽しい山菜採り、おいしい料理は今でも忘れることがありません。