第426回
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  蹄鉄師が話してくれたこと
文 郷土史家 佐々木 一

 今回は昭和四十七年に蹄鉄(ていてつ)師の古老から聞いた話を紹介します。

 私は庄部の鍛冶屋、庄助の次男に明治二十二年に生まれて、七人兄弟があって、一人は早く子どもの頃に死んだが、皆長生きさせてもらって、この間も明福寺さんが「あんたの兄弟合せて四百なんぼになるかのう」と言って、笑われたが、今、高角の姉が九十歳で、兄貴は亡くなったが、弟三人と合せて生存している者、五人で407歳となり、皆長命らしい。

 さて兵隊に行くまで、庄部の親父のもとで鍛冶屋をならい、二十一で兵隊に、豊橋の騎兵隊に入隊して、鍛冶屋の技術を生かして、蹄鉄師となった。除隊して、大正元年、現在の並木へ出てきた。
私の親父も菰野の最初の歩兵で西南の役に参加し、私が菰野での騎兵の初めてで、私の息子が海軍に仕官して、皆軍隊に関係が深かった。私が並木へ蹄鉄屋を始めた頃は、菰野に馬は六、七頭で、中菰野でも相馬さんが馬を飼うようになって、馬も次第に増えた。
私がこの商売を始めて一番最初の客は地蔵の久作さんであった。あの人は私の二年先きに、名古屋へ輜重(しちょう)兵として行かれて、帰られてからも家で馬を飼っておられた。ちょいちょい会って、昔の話、軍隊時代の馬の話をよくしたものだ。
久作さんの馬は足の大きい馬であった。
ある時、坂部の馬がやってきて、蹄鉄を打ち替えた。この時、馬が疳(かん)のきびしいやつで、ハミを持っていた馬子のかいなにいきなり喰いつき、驚いて手を放した隙に飛び出して、並木を西へ、町へ向かって走り出した。これは大変と手綱を持って馬子と二人で後を追って走った。馬は狂って町の大道を西へ駆け抜け、薬問屋から北の刈畑へ走り、庄部まで飛んで行った。
行く道、警察へ走り込んで届けて、巡査も応援に駆けつけ、この頃になると驚いて町の人もたくさん出て、馬の後を追い、遂に庄部の橋の上まで行った。
その折、都合よく潤田の北の坂を治田(はった)から石灰をつけての帰りの久作さんが来てくれた。そして、いきなり荷車を横にして道を止め、馬の走るのを止めてくれた。馬を橋の中に追い込んで、橋の南と北で捕まえる勘考をした。

昭和10年頃の庄部橋
昭和10年頃の庄部橋
何度か馬の背に飛び乗って馬を御そうとしたが、馬は大暴れするばかりで、何度も橋の欄干から川原へ振り落とされた。久作さんもその頃、軍隊で馬を扱ってきた経験者でいろいろと知恵を絞って、手助けしてくれて、遂に橋の欄干から飛び乗って、馬を取り押さえてくれた。あの頃は私も久作さんも盛りで身も軽く、今考えてみるとよくあんなことができたものだと思う。その暴れ馬は蹴る、喰いつくとやらしいやつなので、巡査の捕縄も借りて、口を開けないように幾重もからげ、足もかけ出さないように縄をからげて歩く程度にして並木へ連れて帰った。
あの頃はこの辺で馬を使う人は少なく、百姓も大方、牛を使っていたので、馬を使いこなせる者は軍隊にいった者でないとできなかった。もう久作さんもこの世にはござらん。私も八十余になった。しかし、あのことは有名な話になって、人の話題にもなり、今も昨日の出来事のように思える。今は何もすることなく、梅の古木を削って観音様やだるまさんを刻むのを唯一の楽しみにしとる。
馬でも何でも、好きであったが、生き物はなんでも愛の情(ここ)ろであると思う。心の底にいつくしむ心があれば、どのような暴れ馬も静めることができる。