第427回
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  私の従軍記 そのニ
文 郷土史家 佐々木 一

 柳の芽の少し芽吹く四月十日、部隊の移動命令が発せられた。暫く馴染んだ兵魯(へいろ)を後に朔県の停車場に集結して列車に乗り平地泉(へいちせん)へ向かう。ここは精強な戦車部隊の跡、南方戦線へ転じてもぬけの殻であった。ここに十五日間駐屯して、対米特殊戦闘訓練を受ける。それは戦車に向って爆雷を抱いて単身肉弾攻撃する戦術であった。同月二十五日粉雪の舞う平地泉を出発、列車に乗り山西省を後に北京へと向かう。天津から津保(しんぽ)線にて華北平野を南下、黄河の鉄橋を渡り、済南、除州、蛙埠(ぱんぷ)、浦江(ほこう)へ、長江は船で渡り南京へ、ここに暫く駐屯して長江に沿い上海へ向かう。師団司令部は蘇州に置き大隊本部は無錫(むしゃく)に置くと聞く。我が隊は昆山(こんざん)で下車、この駅で軍装を整え徒歩にて竜河鎮(りゅうかちん)へ向かう。

 純農村の竜河鎮に五月十一日に到着し、村の寺院に駐留する。床は土間にて藁(わら)を敷きその上に寝起きする。ここで作業が命ぜられ、長江の大堤防に横穴を掘り松の丸太を組み崩壊を防ぎ、その横穴に砲を据え付ける。なお、その周辺の藪陰、林や墓地の畔に蛸壷(たこつぼ)を掘る。折柄雨期に入り作業はぬかるみのため困難を生ずる。竜河鎮の村は蓮華の花咲き、穂麦は伸び水牛が田を耕し田植えの準備で大忙しである。

 七月一日、松本中隊長の呼び出しを受け、戦闘準備資材の運搬船の乗船を命ぜられる。それは駅のある昆山で砂利、砂、練瓦、材木など前線の陣地構築用の資材を積み、途中太倉(たいそう)で一泊して運河を下り、長江近くの竜河鎮まで運ぶ任務である。その船はジャンク帆掛舟、エンジンは無く風があれば走るが、無風のときは運河の堤を綱を引っ張って進める。船は船頭夫婦に十二歳ぐらいの娘と子ども二人の五人家族、舟の中に鍋二つかかる竈と食糧の貯蔵庫と寝る床がある。警乗は私一人、船頭に協力して舟を運行する。暢気(のんき)なジャンク舟の警乗で体力もすっかり回復、暑気が強くなった。運河の両岸の畑では西瓜(すいか)、南瓜(かぼちゃ)、瓜が太って豊作、桃も実を丸くして運河の上に枝をさしのべている。

 戦況は我に利あらず、日の丸の船空機は飛ばず米航空母艦から飛来する艦載機の銃撃を受けることあり油断は出来ない。

 八月十日ソ連が不可侵条約を破り、満州、蒙古の国境から怒涛のごとく攻めよせるとの電報が入り、我が部隊は急據(きゅうきょ)前任地の蒙古へ転進の命が発令された。船の警乗から降り原隊に戻り、竜河鎮から昆山への行軍は炎暑の中で必死になって歩む。

 昆山より糧秣を山積みした無蓋(むがい)貨車の上に蟻が群がるごとく急ぎ乗り出発する。蚌阜を過ぎ華中平野を北上する。除州駅に到着する。日時は八月十五日正午列車は停車場に到着、電信に停戦命令の発せられたこと、そして天皇陛下の玉音放送のあったことなどの連絡を受ける。

 済南から黄河の大鉄橋は警戒厳しくして行きつ、戻りつして無事に渡る。

 八月二十五日北京郊外の南口に到着し下車する。これより先の居庸関(きょようかん)より先はソ軍に阻まれ前進できず、かわりに永定河上流の分水嶺付近の匪賊出没のため治安確保に出動する。とある山村にて山リンゴの青き実のなるを見つけ雑嚢(ざつのう)いっぱいにもぎ採り持ち帰り戦友に分け与える。リンゴの酸味で下痢が止まり、回復する。南口の討伐行きが終わり北京市内へ戻る。北京市内では北駅停車場と前門(正陽門)楼上の警備についた。市内の治安はよく保たれて日本軍の誇りを失わず厳かに勤務した。

 九月五日、北京から東の天津へ移る。天津北駅付近のグリコ天津工場に駐屯する。中国国民軍による武装解除があり、野砲隊の軍馬を曳き市内の師団司令部へ連れて行く。

 九月十日、中国人の囚人を済南へ移送のため細野少尉の指揮にて北駅より列車に警乗する。黄河を無事に渡河、済南に到着任務を終える。

(その三へ)