第428回
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  私の従軍記 その三
文 郷土史家 佐々木 一

 九月二十五日、済南までの往復の列車警乗の勤務終え原隊へ戻る。第二中隊は武田製薬の工場に駐屯していた。ここから古兵は順次内地帰還の待機中であった。この頃天津、北京間の鉄道警備を米軍と共同で当たる。豆張荘(ずちょうそう) 駅から第一中隊の分哨警備所へ、八路共産軍のゲリラ隊の奇襲を受け、分哨内の兵全員戦死する。列車では塘沽(とうこ)港で揚陸された米軍の軍需品が北京へと輸送されている。豆張荘付近の農家は落花生の収穫で大忙し、南京袋に詰めて一輪車で運び来る。高梁も黄ばみ華北平野の田園は秋一色である。

 十月一日、豆張荘の鉄道警備も解かれて本隊の駐留する武田製薬の工場へ戻る。ここから米軍のトラックの迎えを受け、上陸用舟艇の貨物の荷揚げ作業に出役する。労役のない日は駐屯の工場内で、内地帰還のための身の廻り品の整理整頓に励む。年が明け昭和二十一年の正月、餅を搗(つ)き新年を迎える。

 四月十五日、我が四〇一大隊の残留者全員に帰還の命令が出て陸軍天津貨物廠(しょう)に集結し、ここの貨物引込み線より塘沽港まで貨物車で行き、内地からの迎えの汽船の順番を待つ。貨物廠は、軍隊と一般居留民者の集結所であった。この大貨物廠は北支派遣軍の衣服、食糧その他生活資材の調達、配給、貯蔵の基幹で大倉庫が広大な構内に幾棟も建ち並び偉容を誇っていた。その施設が内地帰還、引揚者の基地となっていたのであった。

 十五日の夜貨物廠で就寝中、大隊副官の声で起こされた。副官から「君が戦争犯罪の容疑者リストに挙げられているので、明朝中国側の港湾司令部の査問場へ出頭せよ」の伝達であった。翌朝貨物廠のプラットホームへ隊の戦友諸君を見送り査問場へ向かう。査問場では司令官を中心にコの字形に中国軍将校がずらりと並ぶ、まず一礼して官姓名を名乗る。司令官は「戦時名簿」と「従軍事歴」を閲覧の上、厳かに「本官は君が戦争犯罪を犯した者とは思わないが、君と同名の中尉が中支方面で残虐行為を成し、その名が我が方のリストに挙げられている。嫌疑が晴れるまで抑留を命ずる」と日本語で申し渡された。これも天命とそのまま受ける。それから貨物廠内の軍人抑留棟を探し尋ねる、幸い直属の第九〇旅団長福井浩太郎少将が残留して見え、幕僚数名を従えて居られた。この棟は、北支派遣軍の中の各軍団の司令官が終戦処理と残務整理に当たって見えた。

 襟の肩章は金ピカであるが、厳めしい将官も軍刀を帯びず往時の威厳はない、我が旅団長は歴戦の勇将であったと聞いていたが、白髪の温顔の好好爺の風貌で「心配するでない、今日から儂(わし)の側に居ればよい」とありがたい仰せを頂く。そして副官を呼ばれて戦犯容疑に関係の事情をよく調査せよと下命になった。その夜から旅団長と同室で休まして頂く。朝になると米を酒の一升ビンに入れて竹の棒で搗いて玄米を白米にする。そのついた米を黒いお膳にあけると米の中の籾や小石や不純物が混じっている。それを明るい窓の下で選るのは、なんと閣下の仕事である。「儂の郷里は千葉県の柏町、家には丁度お前と同年ぐらいの伜(せがれ)が居る」と仰る。閣下の身の廻りの世話は和歌山出身の伍長が付いて世話して見え、この伍長殿に搗いた米を炊いてもらいそれを閣下と一緒に頂く勿体(もったい)ないこと。それから毎日一回は廠内の中国側の港湾司令部の将校のところへ一足を運び、自分の帰還の促進を懇請しに行って頂く。廠内は日本軍人と引き揚げの民間人が一杯居る。その中を閣下が通るときは人々は敬令し道をあける。軍服の襟章がものを言う。その後を狆(ちん)ころの様にとことこつき従う。相手の中国将校もほとんど日本の陸軍士官学校か大学に留学した人ばかり日本語も流暢であってその応答も慇懃(いんぎん)である。そうこうしている中に半月経過した。四月三十日に旅団長に帰還の命令が出た。

(その四へ)