第429回
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  新田村の成人式
文 郷土史家 佐々木 一

 中世の菰野村は一カ村であって、西の山を総山(そうやま)と呼んでいました。江戸期になって土方雄氏が一万二千石の小大名で就封してから西菰野村、中菰野村、東菰野村の三カ村に分割されましたが、西に連なる山々八百町歩は分割せずに総山のまま残し、入会山として昔からの慣習を守り維持してゆくことになりました。菰野藩は伊勢の地において二十カ村、遠く離れた近江に四カ村を領しており、近江の四カ村は部田村の庄屋が束ねて治めており、城下の菰野三カ村の西菰野村、中菰野村、東菰野村、それぞれに庄屋と肝煎(きもいり)を置き、治めておりました。

 そのなかで、中菰野村は三滝川沿いの中世の割林であったところから松と雑木を切り開き、緩やかな起伏はあれど、三滝川の沖積地の開田に成功しました。

 これが、地蔵新田です。その地蔵新田の元服式を紹介すると、元服式が村の宮守衆を育て、後の庄屋や肝煎となる人材を育てるための儀式であったことがわかります。延宝二年に新田村として興しはじめた地蔵新田も、東西を新道の湯の山道、南北を巡礼道が走り、狭いながらもこれらの道を往来する人の数も増えてきました。

 そこへ村の西南に当る所へ京都から愛宕将軍地蔵を招来して小社を建立しました。この愛宕社は境内が一反余もあって杉の古木が繁茂して、小さな地蔵新田村三〇戸の村人のよりどころとなりました。

 そして新田村で生活を始めた者たちにも子どもが生れ、この正月には十人ほどの新成人を迎えました。先ずは、この新田村の村を守る宮守衆と呼ばれる男を作ることが大切です。そこで新田村で十人を宮守衆として元服式を挙げることが決められました。氏神の春日神社の神主を依頼して神事を行います。これが真先の祝いです。五人組の組頭が出て、小正月の十五日に愛宕社の境内を清掃して十人の新成人を寄せ、先に男子だけを成人にして、女子は来年の正月に愛宕社で式を挙げ、娘組をつくり、御酒の代りに砂糖飯を村で炊いて祝い、本村の中菰野村から庄屋と肝煎二人を招待して祝い励ますことに決めました。新田村の元服式では将来の村の立役者、庄屋、肝煎となれるような人材が育つよう願われ、村人は静かにその成長を見守ることにしました。とりあえず元服式を迎えた男女にお祝いとして木綿のカスリ一反と赤い鼻緒のひより下駄を村より贈り、男子には、平の桐下駄一足と半纏一着を贈り愛宕境内で本村の庄屋が羽織らせました。

 男子の宮守衆には毎月一回の道掃除、馬糞牛糞の除去、川井戸のごみ除去や夜番道の掃除も義務づけられていました。その上柳林の不埒(ふらち)屋敷の見廻りから警戒も言いつけられました。新成人たちは言いつけを守り、立派な宮守衆として村を守りましたので、成人式から村の里道をはじめ夜番道が美しく整えられ、まず湯の山道、巡礼道、庄部道も整備されて美しくなり、里道も石橋の堅牢なものに生れ変って後から生れた新田村とは思えない位良くなりました。

 また娘組では年長者の姉さんたちが力んで裁縫、機織、煮物場などを家々の炊事場の中に娘組で借り受けられるように頼んで提供してもらいました。そこでは娘組の娘たちの家事が上手になるよう村の長老、組頭が親代りに指導したので娘組が競い合って家事修行に励みました。このように懸命に腕を磨いたことで、後にはこの娘たちが製糸工場に働きに出て家計を支える力となりました。