第430回
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  私の従軍記 その四
文 郷土史家 佐々木 一

 閣下は「お前をここに残して儂が先に帰るとは忍びない これも負けたこと。致し方なく後事は師団参謀の禿(かむろ)少佐に依頼してある」と白髪の肩の力を落として語られる。

 明けて五月一日朝の八時、旅団長の手荷物、自動車に付ける少将旗を担ぎ廠内の停車場まで見送る。「会うは別れの始め」一人となった。その足で廠内の「北支派遣軍終戦処理事務所」の禿参謀を探し尋ね行く。この事務所には各軍団の参謀が集まり机を並べ北支方面軍の各地からこの天津へ終結させ、帰還の船団を組み順次内地へ送り出す手筈を整えている。それと勝った中国側、また進駐して来た米軍との調整連絡事務も行っている。我が師団の禿参謀はその総務課長の要職にあった。このとき我が一〇八師団長内田銀之助中将は、北京の北支派遣軍司令官と共に抑留中であった。

 天津の陸軍貨物廠は、約二キロ四方の広大な敷地であった。その南西の小高い丘の上に赤煉瓦の瀟洒(しょうしゃ)な建物があって、ここがかつての将校宿舎であった。ここは残留の各師団の参謀が居住していた。自分もこの宿舎の中の個室の一室をあてがわれる。ここを碼塘(まとう)宿舎と呼び中国の将校も日本軍の三八銃や九七式拳銃を持参して「点検、修理せよ」といい来訪する。ここから港湾司令部へ抑留解除の懇請に行き、また禿参謀の終戦事務の書類作成の手伝いをするなどして日-を過ごす。

 五月二十九日港湾司令部より呼び出しを受け、戦犯容疑は解かれた。直ちに帰還せよの許しを受く。その夜、碼塘宿舎で残留の将校と炊事当番の職員らが送別の宴を催し、別離の辞を頂く。なお帰還の手荷物の食糧、衣料の配慮も受く。五月三十日午前八時、廠内の引込み線の停車場に整列して中国軍の身体検査、手荷物の検閲を受け貨物列車に乗車、直ちに乗船地の大沽(ターク)港へと向かう。一時間余で到着する。帰還船は米軍の大型LSTという上陸用の艦である。一般の民間邦人は、その艦の底の戦車、トラックの積載場所へ乗船する。軍隊は残留者ばかり百名ほど、合せて千名ほどの乗船者であった。タラップを登り船室に収容の時間がかかり出港のドラの音の鳴るのは正午過ぎであった。出港してデッキに上った。一昨年大同へ入り、各地を転戦、戦火の下を潜って今故国へ向かう船上にある。水平線に消えゆく大陸を万感こめて眺める。船は渤海湾を出て右舷に山東半島を望み黄海へと進む。黄海に入ってから海は凪ぎ穏やかな航海が続く。六月六日無事故国の佐世保港に入港した。LST艦は港外停船で小舟で分乗入港する。収容所に入り検疫を受けた。一夜佐世保の収容所で泊り翌朝、風早(かぜはや)駅から京都行きの復員列車に乗車す。汽車の窓から眺める祖国日本の姿は無惨な焼野原が続く。広島も岡山も真っ赤の焼けた瓦礫(がれき)の山である。六月九日、復員列車は京都駅へ到着。ここは焼けずそのままで安心する。駅のホ-ムで飯合で炊飯して腹ごしらえをして、それぞれの郷里へ別れゆく。京都から大垣まで東海道線で行き、大垣で下車、養老線に乗り桑名へ、そして四日市へ着いた。諏訪駅から東へ港まで見通せる焼野原、ところどころに焼け残った土蔵が建っているだけに驚く。暫く固唾をのみ呆然として眺める。湯の山線の小さな電車に乗る、乗客の伊勢なまり言葉に安心する。ここからは変わらぬ田園風景、麦の収穫、田植作業に大忙しの景、鈴鹿の山-は青く、野は早緑に映え、初夏の風が薫る。遂に万里の旅程を経て故里に無事帰り来た。自分の帰還を伝え聞いて老父が田植仕事の田んぼからそのままの姿で駅へかけつけ、迎えに来てくれた。重いリュックを軽-背負い「よかったのぉ、ご苦労じゃったのぉ」と口の中で呟いただけであった。梅雨の煙る夕方、懐かしい我が家の敷居をまたぎ家に入った。

(完結)