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町長雑感

町内小学校の起源

−「明治初めにつくられた・・・」−

 大政奉還や廃藩置県などを経て、明治政府が樹立し、日本が「近代国家」への道を歩み始めて間もない明治5年(1972年)に、フランスの学区制に倣い「学制」が発せられ、日本の近代教育制度がスタートしたことはご存じの方も多いと思います。国家制度の成立からたった5年で教育制度が開始されるということ自体に驚きを禁じ得ませんが、歴史とは前時代の遺産を受け継ぎ、後時代の萌芽を包含すると言われますので、この近代教育制度のスタートを可能にしたことの理由には、それぞれの地域に多くの寺子屋が存在したことが指摘されます。菰野町内でも、明治8年に朝上地区において旧7ヶ村にあった寺子屋を統合する形で田光の乗得寺と光泉寺に仮校舎として学校が設置されました。

 山口誓子が作詞をした菰野小学校の校歌は「明治初めにつくられた教えは今に伝わって・・・」という歌詞で始まります。現在の菰野小学校は、菰野藩の藩校であった「顕道館」にその起源を辿ることができ、明治6年(1973年)1月、その「顕道館」の跡に菰野学校として創立されました。「学制」下における現在の菰野町内で初めて設立された学校が菰野学校ですが、同じく明治6年10月には竹成学校が発足し、その後も数年の間に湯峰学校、川北学校、池底学校、大強原学校、田光学校、小島学校、潤田学校、千草学校が続々と開校されていきます。

 当然のことながら、この当時の行政区は現在の区単位ぐらいの規模であり、学校の設置も単独で行う村もありましたが、隣接する村と共同で行う村もありました。中でも、神森村は、桜村と智積村と一緒になり、武佐学校を運営していました。また、現在では鵜川原小学校区である吉沢村の子どもたちは、恐らく菰野藩との関係からだと思いますが、菰野学校へ通学していました。

 以上のような流れで菰野町内の小学校がスタートしますが、その後、苦境の時代を迎えますが、これについては次回に取り上げてみたいと思います。

明治期に撮影されたと思われる竹永尋常高等小学校
明治期に撮影されたと思われる竹永尋常高等小学校


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