第10回
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お茶づくり
 
伊勢茶の歴史
 

ご飯にお茶、一服にお茶。ことに仕事の終ったあと、飲む一杯のお茶のおいしさは格別です。お茶は私たちの日常生活に欠かせないもののひとつです。お茶の歴史は古く、中国では紀元前57年の漢の時代にお茶を飲むことが広まったと言われています。日本では鎌倉時代に中国へ渡った僧の栄西が帰国のときお茶の種を持ち帰り、佐賀県の背振山(せぶりやま)に撒いたのがはじまりとされています。三重県では、南勢の川俣(かわまた)、粥見(かゆみ)、北勢の水沢などが古く、水沢の宮妻には「茶の木原」とよぶ山茶の林が残っています。ここは江戸時代、菰野藩の領地でした。毎年藩主が領内巡視の際、水沢の浄願寺に立ち寄り、この寺でお茶を飲み、この村の茶業を奨励したといわれています。現在では、この水沢が県下でも屈指の茶の生産地となっています。菰野藩では、雄高(かつたか)のとき、城内に茶園を設け、家臣や領民にお茶の栽培を勧めました。次の雄豊(かつとよ)のとき、茶屋の上の開発が進められ、新田の開墾とともに茶園もつくられました。ここは傾斜地で日当たりのよい地形と土質がお茶の栽培に適して、次第に茶屋の上付近が菰野茶の主な生産地となりました。天保2年(1831)中菰野の紅屋善左衛門(べにやぜんざえもん)は、京都の宇治から新しい製茶の技術を取り入れ、昔からの釜茶の製法を改め品質の良いお茶をつくり、その製法を村人にも教えました。またお茶の販売は菰野に茶木屋(ちゃきや)、木芳(きよし)、萬屋(よろづや)などが茶問屋として国内の商取引のほか、安政6年(1859)横浜が開港になると横浜の商人を通じてアメリカやカナダへ輸出しました。これには四日市港から和船で横浜へ茶を運んだといいます。そして千草の柿弥平次(かきやへいじ)も天明の頃(1781〜1788)に、字神畑(あざかんばた)に茶園を設け、村人にもお茶つくりを勧めました。その跡を継いだ弥十郎(やじゅうろう)は明治の初め、いち早く製茶機械をいれ、今日の機械製茶の先鞭(せんべん)をつけました。また弥十郎は神戸の製茶輸出会社の役員となり海外への輸出に力をつくしました。三重県下にお茶の生産が盛んになると、明治17年に三重郡茶業組合が結成され、菰野にその事務所が置かれました。明治40年頃、菰野町役場に茶技術伝習所が設けられ技術指導と共に、新しい紅茶づくりの研究も行われました。