第22回
 広報こものトップ >> 郷土史・風俗

バックナンバー

 

南川金渓(きんけい)の学業
 
 
 

 金渓は享保17年(1732)西菰野村の農業伝吉の長男に生まれました。幼いころから学問を好み、菰野藩の竜崎致斎(りゅうざきちさい)の家塾で学びました。長じて師の致斎の推めもあって京都の堀 元厚のもとに入門して医学を修めました。京都遊学中、彦根の学者竜草蘆(たつそうろ)にも儒学を学び、後に生涯の友人となった福井出身の江村北海とも、親しく交わり、学問を深めました。宝暦3年(1753)京都の修学を終えて、しばらく桑名にとどまり、仕官せず自由に、読書と勉学のときを過ごしました。明和5年(1768)菰野藩主土方雄年の招聘(しょうへい)を受けて郷里菰野へ帰り、藩主の侍医をつとめるかたわら家塾を開いて藩士の子弟の教育に当りました。また藩主に従い江戸への参勤、江戸においても学者と交流を深め『東遊日録』(とうゆうにちろく)を著し、安永6年(1777)『金渓雑話』をもとに『閑散余録』(かんさんよろく)を出版発行しました。このころ松阪の本居宣長とも学問的な交流があって、宣長が『古事記伝』を著した際、金渓のもとへ書簡を送り意見を求めています。金渓は天明元年(1781)9月14日病没、享年50歳、西菰野金剛寺墓地に葬られました。金渓はその学問が広く世に知られることも少なく、菰野に埋もれたまま、その生涯を閉じました。
 その長男、蒋山(しょうざん)は長島藩の十時梅香iとときばいかい)に学び、父の学問を継ぎ私学麗沢館(れいたくかん)を創立、やがて藩学修文館に発展しました。金渓の孫である定軒も藩の勘定奉行をつとめるほか藩学の教授も兼ね、父祖、三代にわたる学問の家を守りました。

年中行事とワラ菰野町指定文化財 金渓寿画像
(安永8年(1779)10月 司馬江漢筆)