第24回
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運搬A
 
 
 

石を運ぶ
 菰野町内の千草、杉谷、田光あたりは、昔から花崗岩のこもの石の産地です。石切り場で切り出された重い石は、力の強い男が二人か四人で網をかけ、棒でつり出しました。野面石(のづらいし)の場合も軽いものは肩に担ぎ、重いものは藤蔓(ふじつる)で編んだモッコに入れてつりました。さらに大きく重い石は、梃(てこ)を使いコロの上を滑らせて作業所まで運びました。鑿(のみ)で刻み製品にした道しるべや石臼は、菰に包み牛や馬の鞍に載せて四日市あたりまで運んでゆきました。
 特に重い石、たとえば西菰野前田にある地蔵石はとら石という、畳二枚ほどもある大きなものですが、この石を湯の山の宗利谷で発見、その場の藤蔓でからげ、それに長い引綱をつけ、山道には青竹を並べ敷き、竹の上を大勢の村人がそろそろと引っ張って西菰野の村まで運んできたといいます。
 荷車ができて大変便利になりました。重くて長い大きな石は、台車という丈夫な車を前と後に分けその間に太い棒を渡しそれにつるして牛に引かせて運びました。

荷車と大工
 荷車は、江戸初期の寛文のころ江戸で作られたといいます。はじめは道のよい都市で使われ、江戸では大八車、大阪ではベカ車、京都では地車とよばれていました。街では荷車に、米のほか材木、雑貨を積み、主に商用に使われていたようです。
 荷車の利用が盛んになると、車を作る専門の職人ができ車大工とよんでいました。荷車は梯子(はしご)と車輪からなり、梯子の材料に檜を用い、心棒や車輪には堅木の樫やケヤキを用いました。肝心の車輪は胴丸、ごこ、羽板を組み合わせて作りました。のちに心棒に鉄を、車輪の軸受けと羽板のまわりに金輪(かなわ)をはめるようになりました。
 荷車は重い荷を載せて引くので、なによりも丈夫なことが要求され、車大工は樫などの材料の吟味に気をくばりました。

荷車を引くお爺さん荷車を引くお爺さん