第26回
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瓦づくり 歴史
 

煙をあげるだるま窯 わが国に仏教が伝来して、都の飛鳥に壮大な寺院が建立されたのは、崇峻(すしゅん)元年(588)といわれ、このとき百済から4人の瓦工人が渡来して、はじめて瓦がつくられました。ちょうど、いまから約千四百年前のことであります。その後、諸国で国分寺などの建立が進められました。近くは智積寺(四日市市)が奈良時代に創建され、金堂と講堂が建ち瓦葺であり、その廃寺跡から軒丸、軒丸平瓦、丸瓦が出土しています。なかでも軒丸平の蓮華文は飛鳥寺の様式の流れを汲むものといわれています。

 古代の瓦つくりは、丘陵の斜面に溝を掘り、中に瓦をつめて天井は壁で覆い、下に焚口を上部に排煙口を設けた登り窯によって焼かれました。智積寺の瓦も近くの野口(高角)北浦(寺方)岡山(上海老)の窯で須恵器の陶器などと共に生産されたようです。中世になってから菰野町の杉谷の寺院跡から布目瓦などの出土例があります。古代から中世にかけて瓦葺き屋根は檜皮葺などに押されて一時衰退し、安土桃山時代に城郭建築が盛んになり瓦が多く使われて、瓦の生産も上りました。江戸幕府ははじめ瓦葺を禁止、将軍吉宗の代になってそれが解かれました。

 また大津の西村半兵衛は本瓦葺きより簡便な棧瓦(さんがわら)を作り出しました。これによりようやく民間にも瓦が普及しはじめました。江戸中期以降になって菰野あたりにも寺院の本堂の建立が盛んになり瓦の需要が急増しました。なかでも音羽村の瓦屋中川忠右衛門は、小山(三重郡)杉谷、東菰野に瓦窯を置き、手広く瓦の製造と商いをしました。文政元年(1818)潤田の聞称寺をはじめ、音羽の浄正寺、竹成の願行寺など多くの寺の瓦を手がけました。また菰野藩の御用瓦師もつとめました。

  明治以降民家の屋根も追い追い瓦になり、瓦を製造する瓦屋が西菰野、中菰野、東菰野、宿野、田口にでき、だるま窯から煙の上る風景が見られました。戦後の復興期に瓦づくりも一時復活しましたが、その後の製造の機械化にともない大規模の量産に押されて家内工業的な瓦屋は次第に転廃業をしなければならないことになりました。