第29回
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音頭衆
 

 音頭衆とは、寺院の本堂などの建立の際、お木曳きや地築き行事に音頭衆が出て、それぞれの作業に応じた歌をうたい仕事の進行役をつとめました。本堂の新築の場合は莫大な資材と労力を必要とし、その村は、一丸となってこれに当たり、また近隣の村々もこれに呼応して資金と労力を提供して手伝いました。手伝いの村は、村名の印された幟を押し立てて、宮守り連中を筆頭に地築きの応援にかけつけました。地築き場には、櫓を組み、その中心に太い松丸太を立て、この棒に何本かの綱をつけ大勢が力いっぱい引き上げ、いっせいに離されて棒の落ちる力でつき固めます。このとき音頭衆は櫓の上で陣羽織を着て頭巾をかぶり、軍配を手に作業の指揮をとりました。

 江戸後期、中脇村(東榊)に佐四郎、長太郎の音頭衆がいました。佐四郎は、文化3年(1806)御所の造営の際、音頭の命を受け京都へのぼっています。文政13年(1830)竹成村の願行寺本堂の地築きには、佐四郎が頭になって采配をふるい、それに豊八、利吉、政五郎、又佐衛門、勝佐衛門、伊兵衛ら近在の音頭衆が参加しています。明治35年ごろには、榊に内田佐蔵、山口長三郎、竹成に伊藤作蔵、松岡林十郎、小島に増田仁五郎、田口に谷嘉十郎、鈴木清右衛門らが音頭衆とよばれる人がありました。大正5年永井の西信寺本堂建立の地築きは、1月19日に棒起しを行い3月21日まで75日にわたり地固めを行い、これに内田佐蔵ほか19名の音頭衆が参加し翌6年田口の真願寺の本堂再建と、昭和2年員弁郡の原通念寺の本堂地築きを最後として音頭衆の活躍の舞台も失われました。

文化3年の音頭の書
文化3年の音頭の書