![]() |
||
広報こものトップ >> 郷土史・風俗 |
![]() |
湯の山の歴史 |
---|
御在所岳の北方鳥居道谷には、信長が焼き尽くしたという天台三岳寺の廃寺跡があります。伝教大師開創の古刹(こさつ)といわれ、不動堂には、康正2年(1456)の石不動尊が残されています。御在所岳、国見岳は山岳宗教、修験者の道場として多くの修行者、信仰者が集まり大いに盛えた時があり、参詣の帰途、湯の山の温泉に浸かり薬師医王の霊験にあずかったのだと思われます。この古刹が滅亡と共に温泉も廃泉となり、そのあと、関ケ原合戦後、菰野に土方氏が封ぜられ城下町づくりが進み、貞享3年(1686)になってようやく温泉の復興が手がけられ壺屋権七が発起となって湯本浴場を整備、湯宿も八軒を数えるほどになりました。 |
|
|
|
菰野藩においても湯の山登山道の改修、沿道に桜楓の植樹を奨励、景勝の保存に努めました。また廃絶していた三岳寺の再興も幕府の許しを得て、湯本の薬師堂を移して本堂を建て温泉街の中心とし、その西側に日吉(ひえ)神社も勧請しました。湯の山は薦野(こもの)温泉と呼ばれ、東海では数少ない温泉と知られ、ことに尾張の学者文人の間で探勝と湯治に来訪する人が多く、中でも天野信景、堀田方臼、横井也有らが来遊し、それぞれ紀行文を記して薦野山と温泉を紹介、広く世間へ知られることになりました。最も繁昌したときは湯宿八軒、商家九軒ほどが軒を並べました。それが天保の改革で節約の令が出たことから客足も遠のき、安政の頃には一軒に減少する衰微ぶりとなりました。西南戦争の後、傷病者の療養所に指定されて活気を呈し旅館も増加、大正2年に四日市鉄道が開通、戦後は御在所ロープウエイ、鈴鹿スカイラインなど新しい観光施設が完備して面目を一新、ホテル群、療養所が林立しました。 |
|
|