第34回
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石工(いしく)の歴史
 

 石工は、山から石材を切出し、それを加工生産に従事した技術者で、石作りあるいは石工といわれていました。職人として独立したのは鎌倉時代からで石切(いしきり)、石屋(いしや)とよばれていました。このころから建築や造園、そのほか石塔、石臼など生活用具として石が多く使われました。石工の呼び名は江戸時代になってからで、戦国時代から城の石垣、橋など大規模な土木事業が始まるにつれ石の需要が急増して石の産地では山に石切場が、その麓(ふもと)に細工場が設けられ集団的に生産加工が行われました。花崗岩(かこうがん)が豊富に産出する御在所岳、釈迦ケ岳では、その山麓の千草、杉谷、田光あたりに石切場、そして石材加工の業が盛んになりました。

杉谷の石工職人
杉谷の石工職人

名人の石工 
 昔の石工は大方、鑿(のみ)と槌(つち)だけの道具で素晴らしい芸術的な石造物を作りあげています。
 奥郷の矢倉久五郎は、細工物の上手な石屋といわれ、福王山奥の院参道沿いの石仏や下村禅林寺の鐘楼基壇(しょうろうきだん)に、その手の跡を見ることができます。久五郎は若くして職業病である石肺を患い重い槌や鑿を持つ手をヘラにかえて泥人形つくりを思いたちました。はじめ七福神を作り、あとで地蔵尊と、母親像を仕上げて亡くなりました。  
 また、杉谷の市川宗一は無類の一徹者(いってつもの)といわれ、職人かたぎに徹した石工でした。湯の山の大黒天、千草の地蔵尊、翠厳寺(すいがんじ)の親鸞(しんらん)像の三体は生涯の代表作です。宗一の仕事ぶりは一心不乱、自分の作業小屋を内から釘づけにして家人も側へ寄せつけなかったといいます。最後の親鸞像の完成と同時に宗一の命も尽き果て、亡くなっています。

翠厳寺の親鸞像
翠厳寺の親鸞像