郷土史・風俗第39回
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正眼寺の歴史
 

中世 
 正眼寺の由緒に「この寺の旧跡は、寺坂にあったが、元亀(げんき)、天正(てんしょう)のころ信長の兵火に罹り滅亡した。その火中より密(ひそ)かに本尊を運び出し、山田の農家の納屋深く隠してあった」と伝承されています。その昔、中世のころは、今の湯の山温泉駅の南東の丘、寺坂というところにあって、天台宗の冠峰山三嶽寺(鳥居道山)の末寺であったといわれています。近ごろ正眼寺の本尊薬師如来と脇侍日光、月光両菩薩の三尊仏の仏像を調査した結果、その制作年代は平安後期(1100〜1190)のころと判明しました。これは、この寺の古くからの伝承を裏づけするものであり、正眼寺の歴史はもちろん菰野の歴史にも新しく一頁を加えるものであります。

近世
 天下取りの関ヶ原の合戦で家康が勝ち世の中が治まると、菰野には土方雄氏(ひじかたかつうじ)が入城し菰野藩が創立しました。その三世の雄豊(かつとよ)は、伯父にあたる土方作十郎の菩提をとむらうため明歴3年(1657)正眼寺を再興しました。そして伝承の薬師三尊を招来してこの寺の本尊に祀りました。のち元禄9年(1696)に本尊の修復を行い、翌年の春開帳法要を営んでいます。四世豊義(とよよし)のときの宝永5年(1708)に弁財天を祀り堂を建立しています。文政4年(1821)の大干ばつに雨乞祈願を行っています。七世雄年(かつなが)の代、明和4年(1767)山門を建立しました。新福山の山号額は三世雄豊の書であり、寺号額は黄檗(おうばく)渡来僧の独立(どくりゅう)の筆です。境内の墓地には正眼院(作十郎)のほか、菰野藩士の高槻、国府田、神村氏などの墓碑が遺されています。

箕(み)を編む竹屋
正眼寺本堂

箕(み)を編む竹屋
正眼寺本尊  薬師如来像