郷土史・風俗第42回
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禅林寺の歴史
 

中世
 この寺の由緒に「大強原山廬遮那寺という天台宗の古刹がこの地にあり、応仁の兵火に滅亡、その後永正元年(1504)千種城主治庸が大光禅師を招き禅林寺として再興する」と伝えています。千種氏の遠祖忠顕は南北朝時代に後醍醐天皇に近衛中将として仕え、天皇の信任厚く「建武の新政」に助力したのち、足利尊氏の謀反により延元元年(1336)比叡山雲母坂において戦死を遂げました。その子孫が千草に山城を築き、そこを本拠にして戦国の争乱期は北伊勢諸城の旗頭といわれ、北勢に武威を誇っていました。それが永禄11年(1568)信長の伊勢侵攻により千種城も落城して千種氏も滅亡、したがってその菩提寺の禅林寺も次第に衰微の運命をたどることになりました。この寺の本尊大日如来座像(木像、高さ49・5cm)は、調査の結果、南北朝の作と判明、台座に天文24年(1555)修補の墨書を発見、禅林寺の歴史を確実に裏付けすることになりました。

近世
 信長の焼き討ち後、久しく荒廃していた禅林寺を慶安3年(1649)桑名寺町の長寿院の開山嶺室禅師を迎えて再興することになりました。そのあとを弟子鉄叟(てつそう)が嗣ぎ寛文3年(1663)に本堂、地蔵堂、薬師堂を建立しました。五世湛道も長寿院より来寺、仏堂の整備に努め、安永4年(1775)に天文以来の雲版を再鋳しています。湛道の弟子、実秀は七世を嗣ぎ開山木像を名古屋の信徒の寄進を得て製作しています。八世圭州は文政8年(1825)四国の琴平から金毘羅大権現を勧請して寺の鎮守に祀りました。九世大桂は自ら寺田を耕作して勤労の範を示し嘉永3年(1850)に庫裏を建立しました。安政大地震に倒壊の本堂は明治8年(1875)菰野城の書院を移し本堂に改築しています。


本尊大日如来像
本尊大日如来像

禅林寺本堂
禅林寺本堂