郷土史・風俗第43回
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梵鐘(かね)と鋳物師(いものし)
 

鋳造の歴史
 わが国に青銅器文化が伝来したのは、紀元前300年ごろの弥生時代といわれ、はじめ銅鐸(どうたく)や銅矛(どうほこ)が作られました。寺の梵鐘は京都妙心寺の鐘が最初で、西暦708年には年号も和銅と称えられ、747年になると奈良の大仏の鋳造が開始され鋳造の技術は大きく進歩しました。平安後期の1153年に河内国丹南(かわちのくにたんなん)の鋳物師に「禁裏御用御鋳物師」の称号が与えられました。  

伊勢の鋳物師
 天正10年(1582)ごろの滝川一益の書状に「勢州鋳物師12人の事」とあって松阪の蛸路(たこじ)の鋳物師は早くから活躍し、つづいて津、桑名、楠、田光に鋳物師が住み、慶長19年(1614)京都方広寺の大梵鐘つくりには、津や田光の鋳物師が参加しています。江戸期の伊勢の鋳物師は桑名に辻内・広瀬ら3人、田光に諸岡・松永ら5人、上鵜川原に諸岡1人、楠に加田1人、津に辻・奥山・安保ら3人、松阪に天命・常保ら6人。おおよそ19人の鋳物師がいました。寛文7年(1667)、桑名の辻内氏の作った春日神社の銅鳥居は有名です。津の辻、奥山氏は梵鐘のほか銅燈籠や茶の湯の釜に優れ「伊勢芦屋」として茶人から珍重されました。楠の加田氏は菰野の瑞龍寺、三嶽寺の梵鐘を作っています。上鵜川原の諸岡庄右衛門は三重郡内の鋳物師の取締役をしていたが、その作品を見ることはできません。  

治円福寺の梵鐘
治円福寺の梵鐘
田光の鋳物師が鋳造した半鐘
田光の鋳物師が鋳造した半鐘