郷土史・風俗第45回
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田光の鋳物師
 

歴史
 その由緒書きによると平安後期近衛天皇のころ、河内国円南群我孫子庄(あびこのしょう)から田光へ移ると、また天正7年(1579)藤原国延が大工職に任ぜられたと伝えています。河内の鋳物師が最も活躍するのは室町中期であり、大体その頃に近江を経て伊勢の田光へ移住したものと考えられます。この田光は桑名と八日市を結ぶ八風街道沿いにあり、近くの甲津畑、治田に銅鉱山もあって、しかも付近の山林で良質の焼料鍛治炭も容易に得られる土地柄からこの田光に定住したのでありましょう。鋳物師は寺社の仕事をする上から京都の公家真継家の支配を受け、鋳物師免許状と勅許の幟を授与されていました。出職の場合は、この幟を掲げ天下御免の誇りを持って歩きました。

盛衰
 鋳物師は火気を用いるところから、その仕事場、住家は、村はずれの西江平付近に鐘鋳場(かねいば)を設け、店を張っていたようです。現在もこのあたりを金井の地名でよんでいます。
 田光の鋳物業が最も盛んなときは享保(きょうほ)から延享(えんきょう)のころで記録や現存しているものから調べて、その製作数は梵鐘30、半鐘が36であります。実際の製作はこれを上廻るものとおもわれます。このうち現存するものは梵鐘5、半鐘22です。
 大方の梵鐘は第二次世界大戦に供出されて四日市石原の溶鉱炉で溶かされる運命にありました。地元の菰野町に残るものは少なく、音羽浄正寺と下村大円寺の半鐘二つだけであります。北勢では桑名と並ぶ鐘づくりの田光でしたが、江戸末期の文政、天保のころに需要も減り、そのうえ後継難もあって次第に衰微、転廃業して住居も村中に戻ってきました。


勅許の幟
勅許の幟