郷土史・風俗第48回
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静堂とこものの俳句
 

静堂のひととなり
 俳人天春(あまがす)静堂は、明治6年(1873)保々村に生まれました。それは素封家(そほうか)天春文右衛門の流れを汲むものでした。静堂は青壮年期は実業界にあって関東、関西方面で活躍していましたが、大正4年(1915)病に罹(かか)り職を辞し桑名に住みました。療養の傍(かたわ)ら、句作に専念し菰野湯の山に湯治することもありました。
 また菰野見性寺に滞在して座禅三昧にひたり、尾高観音堂に山籠りしてひたすら吟草(ぎんそう)に努め、ときには西行法師を慕い福王山麓の庵跡で句会を催すなど、菰野の風光と閑地は彼の詩心を深く捉えたようであります。静堂は昭和2年(1927)桑名で病没(55歳)。その後、門弟により静堂句集が上梓(じょうし)されました。

静堂と朝上
 静堂は尾高山に参籠(さんろう)中「山中にただ咲いている桜かな」の句を詠み、その句碑を杉谷の河内寛一らが建てました。静堂が大正12年ごろ桑名で俳誌「かいつむり」を創刊すると、当時、小学校の校長であり俳人であった藤井喜市(鬼白)はこれに率先して参画し、その同輩である朝上の「温故社」あるいは「小島句会」の人々を動かし「かいつむり」に盛んに投句してその活動ぶりを示しています。喜市は教育者であり、また一方、詩歌においても豊かな天分があり、その指導力も勝(すぐ)れていました。今日、朝上地区に俳句の盛んな風があることは、静堂、喜市らの活動、努力がその源となっているようであります。


尾高山 静堂句碑
尾高山 静堂句碑