郷土史・風俗第52回
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山と村人
 

山の恵み
 西に連なる鈴鹿の山々、中でも御在所岳、釈迦ヶ岳は、名も神や仏にちなむ名をつけ人々は山に対して畏敬の念で仰ぎ見てきました。
 山は清浄な水と獣、木々を生みだしてくれました。人々は秋が終われば萱を刈り、薪を取りに山へ入り、また栗や自然薯(じねんじょ)も拾い掘ることができ、そして春が来れば、わらび、ぜんまいを採り、夏になれば青草を刈って牛馬に与えるなど、こうして山は私たちの日々の暮らしに計り知れない恵みを授けてくれました。
 近頃、山から猪(しし)や猿が里まで降りてきて畑の野菜や果物を失敬していくということですが、昔は猿は山神の使い「山王」といって畏(おそ)れていました。このことは、自然界の定められた住み分けを獣たちがおびやかされて、余りにも驕(おご)りをきわめた人間の所業が、神の怒りに触れたのではないでしょうか。

山を守る
 菰野藩では享保9年(1724)に菰野山の片倉と金谷山の一部をお林に指定し植林を行い非常の場合の備えに充てていました。そして湯の山登山道の沿道では松、杉、檜、桜、楓はお留(とめ)木として切ることを禁じていました。そのほか領内の入会山(いりあいやま)や私有林においても六尺周り以上の木を切るには藩の許しがいりました。
 また桑名藩においても福王山はお留(とめ)山に指定して麓に山番(やまばん)役人を置いて保護し、木を切った後は必ず苗木を植えることを義務付けていました。
 明治には殖産奨励策として昔からの狩場、萱山秣場(まぐさば)のあとに植林が治山治水上からも積極的に行われました。なお菰野では家ごとの庭に苗床を設けて杉苗、檜苗を作り、それを背負い雲母(きらら)山の萱山に登り植えたのが菰野山の植林のはじまりであったと言われています。
 


植林作業
植林作業