郷土史・風俗第54回
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本草学とこもの
 

読書室
 儒学者の山本封山(ほうざん)は、天明6年(1786)にそれまで仕えていた西本願寺法主の文如上人から、学問所である読書室をもらい受け、京都の油小路にある自邸に移して学舎としました。その子である亡羊(ぼうよう)は小野蘭山(おのらんざん)に本草学(ほんぞうがく)を学びその高弟となりました。本草学とは中国の薬物学で、薬用とする植物などの効能等を研究する学問です。師の蘭山が幕府の命で江戸へ出ると亡羊が京都学派の中心となり、読書室には多くの生徒が集まりました。わが町の太田惟吉(いきち)、平井時善(じぜん)も読書室の門人録(もんじろく)にその名をとどめ、当時では最高の学問を身に付けました。
 読書室には多くの門人が全国から上京し、その中には大垣の江馬春齢(えましゅんれい)、津の川喜多久太夫(かわきたきゅうだゆう)、一志(いちし)の松浦武四郎(たけしろう)などがおり、のちに世に知られた多くの秀才を輩出しています。山本家は代々医者の家系で、患者を診療し読書室で本草学を講じ、数多の医学生を養成しました。

太田惟吉と平井時善
 太田惟吉は文化8年(1811)に大強原桜堂にある医家の長男として生まれました。惟吉は17歳のとき四日市の医家に医術を学び、さらに京都の読書室、亡羊のもとに入門して本草学を修めました。
学を終え帰郷して父の跡を継ぎ、菰野藩に仕えて藩主の侍医を勤め、慶応3年(1867)に57歳で亡くなりました。
 平井時善は文化8年に菰野領下福村に生まれました。南川定軒(ていけん)に学び、さらに京へ上り亡羊の次男である榕室(ようしつ)について本草学を修め、その後都の公家である中山家に仕えました。
在京中には画家の岸岱(がんたい)、浦上春琴(うらがみしゅんきん)に大和(やまと)絵の技法を学びました。菰野に帰った後、11代藩主土方雄嘉(かつよし)の侍講(じこう)となり、藩校の修文館の教授も兼任していました。時善の描く本草画は優れており、また無類の勉強家でもありました。写本大日本史81冊は、彼の努力の結晶と言えます。


木馬での材木搬出
時善の奉納絵馬(広幡神社)