郷土史・風俗第56回
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菰野の農業【2】
 

脱穀と籾(もみ)すり
 良く晴れた秋日和が2日ほど続くと稲が程よく乾き、夕方にはそれを丸く積み置いて、雨の心配のないときは横積みにしました。これをにご(稲むら)といいます。昔は千歯こきで脱穀を行っていましたが、大正中期から回転する胴に端子がついている足踏式脱穀機が発明され、千歯こきよりもかなり能率が上がりました。戦後は石油発動機を使う新しい脱穀機が普及し、一段と楽になりました。脱穀作業の日は学校も農繁休暇となり、子どもたちは稲を担ぎ、父母を助けて手伝いました。
 籾は家の庭いっぱいに莚(むしろ)を広げ、天日干しして一旦納屋に貯蔵し、雨の降った日などに納屋の中で土臼(つちうす)ですり米にしました。昭和10年頃からゴムロールの籾すり機ができ、これが家々を移動して共同で籾すりを行いました。米を升(ます)で量る人、俵に入れる人、俵を紐で縛り担ぐ人など、皆で協力して仕事を行いました。そして俵の山を数え、収穫の喜びを分かち合いました。

収穫農具の進歩
 古代の穂刈りは石包丁で稲穂を切り取るという方法でした。それが鎌による根刈りになり、藁(わら)の利用がはじまりました。鎌も鋸刃(のこば)に改良され、作業の能率が上がりました。
 稲の乾燥はもっぱら稲架(はさ)かけで、脱穀は竹筒を二つに割った扱箸(こきばし)を使用していましたが、後に櫛の歯に似た千歯こきが発明されました。さらに野鍛冶により歯が鋼製になると、脱穀量は倍加しました。
 大量に脱穀が可能な千歯こきには技術の習熟が必要でしたが、足踏脱穀機の発明で作業が簡素化されました。その後、脱穀機やチェーン付きの自動脱穀機の発明で労働がさらに軽減されました。さらに刈り取りと結束を同時に行うバインダーができ、現在のコンバインが出現したため、今では鎌も使わなくなり、稲刈り唄も遠い昔話となりました。


コンバインでの刈り取り(昭和48年頃)
▲コンバインでの刈り取り(昭和48年頃)