郷土史・風俗第65回
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菰野藩の近江分領地
 

部田(へた)村
 慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、家康から土方雄氏(かつうじ)に菰野で1万石、近江栗太郡内4か村で2000石合わせて1万2000石の所領を与えられました。この中の部田村は、中世、青地氏の根拠地で、砦がありました。菰野領になってから、青地氏が代官を務め、年貢の取り立て、道路、用水普請※1など村政の一切を任せられていました。宝永2年(1705)三世雄豊(かつとよ)は、次男久長(ひさなが)にこの部田村1000石を与え分家を創立しました。久長は旗本として江戸千駄ヶ谷に屋敷を構えていました。
 その後、部田村は青地町となり小槻(おつき)神社、西方寺(さいほうじ)など土方家にゆかりの社寺があります。西方寺には殿塚があり、代官青地氏の墓もあります。土方家代官宅地は志津小学校となり、その一隅に城跡の記念碑が残されています。
※1「普請」土木工事や修理を行うこと

上笠村・南笠村・羽栗村
 上笠村は、琵琶湖の東、中山道草津宿に近い交通の要地、菰野藩 400石、淀藩400石の相給地(あいきゅうち)でした。ゆかりの天満宮、宗円寺があり、庄屋※2は小森氏が務めていました。
 南笠村は、菰野藩300石、膳所藩300石の分割所領の村でありました。ここは草津宿の南の端、狼(おおかみ)川が村の南を流れ、東は東海道が大津へ通じ、矢橋(やばせ)湊も近く、海陸の交通の要所であり、村は東海道の助郷人馬※3や街道筋の掃除などの出役が課せられていました。
 羽栗村は、菰野藩400石、残り76石は隣の膳所藩の所領となっていました。この村は瀬田の唐橋を渡り瀬田川沿いに下った丘陵地の麓に東西に伸びる集落です。福円寺と法林寺があり、法林寺の本堂に左三つ巴の土方の家紋額があげられています。
※2「庄屋」村の自治などを行う長
※3「助郷」補助的に人馬を提供すること

西方寺から望む青地地域
▲西方寺から望む青地地域