郷土史・風俗第66回
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文化人教育者 藤井喜市
 

校長としての働き
 藤井喜市は明治5年3月11日、田光村の安太夫、ひの夫妻の長男として生まれました。菰野学校の高等科から三重師範に進み、同28年に卒業して菰野小学校の訓導※1に奉職、同38年にふるさとの朝上小学校の校長に就任しました。朝上小学校は明治5年の学制発布で田光学校から刮磨(かつま)学校と名を改め、同22年朝上村創立とともに朝上小学校となり、同34年に小島小学校を併合して朝上尋常高等小学校となりました。
 喜市校長は校舎の改築、拡充に努め奉安庫※2を建て、学校の「校訓」を制定、「村訓」も起草しました。大正10年の秋、台風のため校舎が倒壊しましたが、同13年新校舎4棟が完成しました。喜市は学校教育のほか公民教育を重視、朝上青年会、処女会を結成して、男子は夜学を開講し、女子には裁縫を教え、常に人は従順、誠実、自律であれと説き、温情をもって導きました。

詩人鬼白先生
 喜市は昭和5年に永く勤めた教職を退くと、一切の公職に就かず、鬼白と号して悠々自適に晴耕雨読の日々を過ごしました。杉谷の尾高山で遊び、俳句を勧め、田口の西行庵で歌会を催し、田光の光泉寺などに青年を集めて文学を説きました。
 また、短歌を佐佐木信綱、伊藤左千夫らに学び、特に左千夫を明治41年5月、湯の山温泉へ招聘(しょうへい)しています。俳句は桑名の天春静堂と親しく付き合い、大正5年に静堂が病気療養中は、菰野、杉谷、田口へ招き親身になって看護の手を貸し、句誌『かいつむり』の編集刊行に深く関わりました。朝上村にあっては田光句会、小島の葉木句会を熱心に指導しました。喜市の書は天与の資質か、その麗筆は色紙、短冊や条幅などに多く残され、現在では町の至宝として大切にされ、その遺徳を偲ぶ縁(よすが)となっています。昭和22年1月4日、75歳で亡くなりました。

※1「訓導」小学校の教諭の旧称
※2「奉安庫」校舎内に設けた保管施設

藤井喜市の石像
▲藤井喜市の石像