郷土史・風俗第67回
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伊能忠敬と菰野
 

測量家 伊能忠敬
 日本ではじめて正確な地図を作った天文学者、測量家として有名な伊能忠敬は、延享2年(1745)に千葉県九十九里町に生まれました。幼少の時から経書、医学、数学を学び、17歳のとき佐原の豪商伊能家の養子に入り、天明3年(1783)に佐原の名主を命ぜられ、自家の蔵米を放出して窮民を救いました。寛政7年(1795)、家を長男に譲り江戸に出て深川に居住し、幕府の天文方高橋至時(よしとき)に天文学、測量術を学びました。
 55歳のとき江戸を出て東北、北海道を測量して地図を作製しました。文化元年(1804)に日本の東部の地図をまとめて将軍に上呈、閲覧をうけ、このとき幕府の天文測量方に登用され、以後は天下の御用測量方として全国測量を目標に歩きはじめました。

※「大庄屋」村の自治などを行う村役人

菰野の測量
 忠敬は日本全土の測量を進め文化11年(1814)に第二次九州測量を終え、姫路で正月を迎えました。69歳になった忠敬は中国地方内陸部を測量して、京都から東海道を通り津から亀山へ来て、脇街道の巡見道へ入りました。3月18日、亀山城下を出発して伊舟村に入り、その日は養泉寺に宿泊して、翌19日は桜村、宿野峠から金溪川を渡り、東菰野の制札前まで測量して、その夜は明福寺へ宿泊しました。
 菰野藩では幕府測量方の忠敬一行を巡見使に準じて丁重に接遇して大庄屋※久保幸助が宿の明福寺へ挨拶に来ています。また、近くの藤堂領、長島領、有馬領の大庄屋もご機嫌伺いに訪ねています。翌20日は宿野、福村、神田(こうだ)、森を測量して四日市に宿泊し、翌21日は菰野に戻り、潤田、音羽、千草を測量し、その夜は千草村庄屋辻常右衛門宅に宿泊しました。翌22日は竹成、小島、田光、切畑、田口、杉谷村の測量を終え宇賀、石槫方面へ向かいました。

忠敬の肖像
▲忠敬の肖像(伊能忠敬記念館所蔵)