郷土史・風俗第68回
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寺社建築と宮大工
 

菰野の寺社
 神殿の建築様式は、伊勢神宮の白木、堀立、かやぶきの簡素な純日本風のものにはじまり、それが大社造、春日造、神明造に変化しました。そして、6世紀に大陸から仏教が伝来すると、礎石(そせき)を置き柱を立て、瓦ぶき、木に塗料を施すなど、宮殿や仏堂が壮大な規模になりました。鎌倉期に禅宗が伝えられ、天竺様式に日本風が調和した折衷様式の建築が生まれ、日本の繊細な技術で工夫が重ねられました。
 町の神社の本殿は、神明造から流造に変化した様式です。拝殿は、切妻から入母屋(いりもや)様式までさまざまで明治期の合祀時にほとんど新改築されたため、室町、江戸初期の古建築は少ないようです。寺院で禅宗寺院様式を構えているのは臨済宗の見性寺(けんしょうじ)で、その本堂は客殿様式です。浄土、真宗系は、天保年代(1830〜1843)に建立された翠巌寺(すいがんじ)、金蔵寺(こんぞうじ)、願行寺(がんぎょうじ)の本堂で江戸期の真宗寺院建築様式に適う御堂です。

菰野の宮大工
 菰野は土方氏一万石の城下に武家屋敷があり、城の門前には商家が軒を並べ、左官、車大工、指物※、籠屋、桶屋などの工人が店を開いていました。なかでも寺社建築を主に行う宮大工は、中菰野に伊藤重近(しげちか)、佐藤惣左衛門(そうざえもん)、東菰野に田中文右衛門(ぶんえもん)、福井親蔵(ちかぞう)、武藤三千蔵(みちぞう)、大塚武兵衛(ぶへえ)などがおり、大強原では平野万右衛門(まんえもん)、杉谷では増田又吉(またきち)らが活動していました。

※「指物」戦場での目印にした小旗や飾り物

金蔵寺の本堂
▲金蔵寺の本堂