郷土史・風俗第69回
 広報こものトップ >> 郷土史・風俗

バックナンバー

 

宮大工 高木藤造
 

高木藤造の家
 藤造(とうぞう)の祖父は田中長三郎といい、菰野藩領下の山田村(現四日市市)の安正寺(あんしょうじ)門徒でありました。優れた技術を持つ大工であった長三郎は、藩の御用大工を命ぜられ、城下の川原町に移住し、延享2年(1745)3月、朝明郡杉谷村の観音寺(現慈眼寺(じげんじ))の本堂を建立しています。
 長三郎から親蔵(しんぞう)、藤造、兵三郎(ひょうざぶろう)と跡を継ぎ、代々大工業を営むようになりました。また、分家の長右衛門(ちょうえもん)も宮大工として本家を助け、寺社の建築に携わっていました。この藤造の家がある川原町は、お城の北木戸の門に続く町筋で、大工、左官、指物、畳屋、鍛冶屋、車屋、紺屋(こうや)※1など主にお城に出入りする職人の町でありました。
 文政7年(1824)に父の親蔵が亡くなり、20歳の藤造は宮大工の家業を継ぐため、近江八幡の名家高木作右衛門光一(さくえもんこういち)に弟子入りして寺社建築の技術を学びました。


※1「紺屋」布を染める染物屋
※2「作事方」幕府の建築工事者

藤造の活躍
 藤造は師匠のもとで京都御所をはじめ仏光寺(ぶつこうじ)などの建立に参画し、天保7年(1836)には一身田高田派本山の如来堂前の唐門の作事方(さくじかた)※2を務めました。天保15年(1844)高田派専修寺(せんじゅじ)の唐門を見事に完成させた藤造は師匠の高木姓を名乗ることを許されました。弘化3年(1846)師匠の光一が亡くなり、しばらくは近江八幡の高木家の若主人の後見役をしていましたが、嘉永4年(1851)菰野藩の江戸屋敷表門の作事方を命ぜられ、八幡表に暇を乞い、菰野に帰って藩の御用を務めました。
安政元年(1854)6月に安政の大地震が起き、北勢地方は大被害を受けました。寺の本堂の倒壊も多く、その再建の普請に藤造の活躍のときが訪れました。まず、大強原の随法寺(ずいほうじ)、菰野の明福寺(みょうふくじ)の本堂をはじめ、田光の乗得寺(じょうとくじ)、石槫の照光寺(しょうこうじ)書院、山口の善長寺(ぜんちょうじ)、中上の遍崇寺(へんそうじ)、高角の林正寺(りんしょうじ)、川島の西福寺(さいふくじ)、山田の安正寺(あんしょうじ)などの寺の本堂、山門、鐘楼などにその技を振るいました。藤造は明治20年(1887)10月11日、80歳で亡くなりました。

高田本山専修寺の唐門
▲高田本山専修寺の唐門