第7回
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  野鍛冶(のかじ)
 

鍛冶の歴史
 となりの中国では紀元前四百年ごろに鉄製のクワ、スキ、カマなどの農具が使われていました。やがてその技術が伝来して日本では弥生期に九州で鉄製農具が石器と共に使われ、弥生期中期の登呂遺跡からは、オノ、ノミ、チョウナ(注1)を使ったあとのある木製品がみつかっています。木製のクワ、スキに鉄製の先をつける工夫によって仕事の能率は上り、カマ、オノなどの刃物がつくられて作業は一段としやすくなりました。つぎの奈良、平安時代にはほとんどの農具が鉄製にかわり、稲作も全国に広まりました。そしてそのころから鉄製農具をつくる職業、鍛冶ができてきました。平安後期の延喜式(907)によると近畿の鍛冶の数が、近江国34戸、伊賀国3戸、伊勢国3戸と記されています。室町後期の画家狩野吉信が画いた「職人尽づくし絵」には、いろいろな職人の中に鍛冶師もあります。中世以後になると鍛冶職も刀、鍬(くわ)、鎌、鋸(のこぎり)、包丁鍛冶など、作る物により専門に分かれていきました。村では農具をつくり、直す鍛冶を野鍛冶と呼んでいました。福松の彦治かじは、享和3年(1803)に千草の三岳寺本堂に使ったカスガイを作っています。
 また文久2年(1862)の町絵図には菰野城下の東町筋のはずれに鍛冶屋が一軒画かれています。ここでは、馬の蹄鉄を打っていました。菰野町内の鍛冶屋は昭和35年ごろまで朝上3軒、竹永2軒、千種2軒、鵜川原3軒、菰野3軒の合計13軒の鍛冶屋がありました。この仲間は、北勢野鍛冶協同組合を結成し、加入していました。昭和40年過ぎから農業の機械化が急に進み、スキも耕うん機に変わり、そしてクワ、カマも使うことが少なくなり、次第に野鍛冶は村から姿を消してゆきました。


チョウナ(手斧)
(注1):チョウナ(手斧)