郷土史・風俗第70回
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鈴木弘覚
 

弘覚の経歴
 弘覚(こうかく)は文政5年(1822)菰野城下の東町の商家、伊藤源蔵の五男に生まれました。名を大三郎(だいざぶろう)・弘覚といい、菰野藩士鈴木家の跡を継ぎました。
 弘覚は、藩の儒学者南川定軒(ていけん)に四書五経(ししょごきょう)※1を学び、のちに師の勧めで京都に遊学しました。京都では頼 三樹三郎(らい みきさぶろう)らに儒学を学び、医術も修め、九州日田(ひた)の咸宜園(かんぎえん)に折衷学を、長崎へ行き蘭学を学び、学業を終えて帰郷しました。
 帰郷後は菰野藩へ士官しましたが、藩の上司に水利の意見申し立てが認められず、藩を辞し、横浜へと移りました。横浜では三井両替店へ通辞(つうじ)※2として勤め、この店で同族の伊藤多蔵が店の金をひそかに費消したため、弘覚はその責任を負い横浜を出奔して日光の庚申山(こうしんざん)へ登りました。そして御嶽教(おんたけきょう)の修験者の中に身を投じ修行すること3年、先達となり、山を下り南那須野地方の山村を放浪行脚することになりました。

※1「四書五経」儒教で重要とされる経典
※2「通辞」通訳を行う役人

農学講習所の開設
 南那須野の村々を巡り、病める人には医術を、悩める人には加持祈祷を行い、栃木県安蘇郡(あそぐん)小野寺村まで来て、山崎竜太郎家に引き留められてしばらく逗留し、隣村の韮川村(にらがわむら)板橋六郎家に移りました。
 六郎は弘覚を一目見て、この人はただの加持祈祷の行者ではなく、元は菰野藩士、そして儒学、医学を修めた学識者であることを見抜き手厚い接遇を受けました。
 弘覚は韮川から渡良瀬川に沿い南へ下り、埼玉県麦倉まで来ました。そこでは村の農業に熱心な青年、荻原丈助の懇請を受けて、村の薬師堂の傍らに、樊須園(はんすえん)とよぶ道場を開き、ここで村の青年を集め、農業の生産性を高めるための技術改革を説き、研究の教育を始めました。まず、郷里の菰野から「関取米」の種子を取り寄せて、試作して好成績を収め、これが利根川筋の関東平野に普及する端緒となりました。弘覚の樊須園が農学講習所になり、さらに埼玉県立幸手農学校へと発展しました。

弘覚の墓碑銘
▲弘覚の墓碑銘