郷土史・風俗第71回
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菰野の村芝居
 

村芝居のはじまり
 農村芝居の舞台は神社の物置のような場所でした。しかし、年に一度の鎮守の祭りで芝居が行われる際、村人が集って舞台も息を吹き返します。都会から有名な役者が来ることはありませんでしたが、芝居は村人たちの手で伝承され、舞台は共有財産として大事に維持されていました。
 舞台は設備も充実しておらず、芝居を演じるだけの大きさで、楽屋は舞台の背面にある大部屋だけでした。農村舞台はこのように簡素なものでしたが村の建物の中では決して小さくはなく、舞台から見物席までを含めると村民全員が集まれるかなりの広さの敷地が必要で、そうしたことから鎮守の社の境内に目をつけられたのだと考えられます。そして、若い男女の語らいや村民の結束の場所となり、楽しみや悲しみが生まれる中心ともなっていました。
 現在は、廣幡神社に舞殿があり、演芸などが催されていましたが、戦後は神社社務所や寺院の本堂にも舞台を作り、さまざまな演芸会が盛んに行われていました。

城下の芝居
 宝永7年(1710)に庄部に市神を祀り六斎市場を開設しました。神輿の渡御神事を行い、庄部にお旅所を建立して市場の繁栄を祈りました。この祭礼では奉納相撲とともに四瀬古芝居を催した城下町の南瀬古、東町、北瀬古、川原町の四集落が交代で芝居の興行にあたりました。宝暦年間は領内節倹令のため、四瀬古芝居は一時中断されていましたが、文久2年(1862)に復活し、藩主もお忍びで見物しました。
 明治になると大阪俄(にわか)などが芝居の一座を組み、巡業に来て村に宿を取り広場、空き地、田んぼなどに小屋を造って喜劇・時事劇を興行しました。また、安来節・浪花節・江州音頭・三河萬歳・尾張萬蔵・御殿萬歳・獅子舞も巡業してきました。平野諸雑記抜書によると明治2年(1869)、御領内一般五穀成就の祈願のため、村々思い思いの芝居、曲芸、相撲、芸者の手踊りなどが祭礼中3日間にわたり催されたと記録があります。また、日清、日露の戦勝祝賀記念にも人形浄瑠璃(文楽)の芝居が廣幡神社で催されました。

廣幡神社の舞殿
▲廣幡神社の舞殿