郷土史・風俗第72回
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村芝居と役者
 

菰野町の役者たち
 延宝元年(1673)に紀州で生まれたとされる初代あやめは、5歳のときに父を失い、道頓堀にて売られ、色子※1となって綾之助と称して歌舞伎女形となって売り出しました。最初、吉沢あやめと名乗っていましたが、のちに芳沢あやめと改名し、女に変装して帰宅したがために妻が間違え、嫉妬したという逸話が旧鵜川原村に言い伝えられています。当時の村の東外れには庄屋久保幸助によってあやめ塚が建てられ現在も残っています。
 千種村には、芝居小屋はありませんでしたが、明治の末から大正の頃、福松出身の市川順若(じゅんじゃく)が大阪で修業し、一座をつくり座長として千草で凱旋興行を行いました。また、一座が鹿島神社の境内で興行した記録が柿家文書に記載されています。

※1「色子」男好きを演じる歌舞伎役者
※2「門人」門下の弟子

市川順若の碑
▲市川順若の碑

下村の芝居
 昭和8年から昭和18年ごろまで営業していた下村座は、大きさ5間×9間(45坪)で北側に10坪ほどの楽屋部屋、西側に入口があり、舞台、花道も備えた旧来型の芝居小屋でした。当初は寺尾修一がタオル工場として建てたものでしたが、廃業後、寺尾直次郎が譲り受けて芝居小屋に改造しました。その後、昭和18年に下村養蚕組合が買収し、後に下村公会所として利用されていました。その間も地元の農村歌舞伎や大衆演劇団などに小屋貸しはされていましたが、建物が老朽化したため、昭和50年に取り壊され、今では跡形もありません。
 下村出身の役者としては、市川紅之助がおり、安政2年(1855)に下村の位田嘉六の七男に生まれました。本名は嘉蔵といい、若くして上京し、東京の役者市川九蔵(三芳屋)へ入門して芸を身につけ、妻の石井よしを伴い下村へ帰郷して、地元の青年たちに芝居の指導を行いました。嘉蔵は明治43年6月9日、享年55歳で亡くなり、市川勘十郎、河村源三郎、寺尾直次郎、位田銀治郎、位田正一、棚瀬市蔵、位田嘉吉ら門人※2たちが禅林寺に墓碑を建てました。

市川紅之助の碑
▲市川紅之助の碑