第258回

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宮大工藤造と高木家  文 郷土史家 佐々木 一
でき上った塔と十四代目
当主高木敏雄師

当主高木敏雄師  菰野の城下の川原町、新池の西に屋敷を構え、藩の御用大工を勤めていた高木藤造は 文化五年(1808)生れの人です。
 藤造は、その一代に見性寺をはじめ石榑の照光寺、中上の遍崇寺、 大強原の随法寺など、多くのお宮、お寺の建築にたずさわった宮大工です。
 藤造は二十歳のとき、大工の腕を磨くため近江八幡の名工高木作右衛門のところ へ弟子入りをしました。江戸期、近江には甲良に甲良宗広という、 日光東照宮を造営した大工と、近江八幡に高木家がありました。 こちらは主に京都にあって伝統の鎌倉風の堅実な工法を守り、 こうして互にその技を競っていました。
 藤造が入門した高木家は、京都の仏光寺の本堂、東寺の五重塔、 一身田の専修寺如来堂をはじめ、近くでは員弁の藤原の敬善寺、 治田の善正寺、安行寺などの本堂を建てています。 この高木家の十四代目の子孫が、いま滋賀県水口町に住む、 高木敏雄師です。師は彦根城の長屋門の文化財修理を最後の仕事に、 第一線から退き、いまは隠居の身分ですが、 若いころから多くの寺社建築を手がけ、仕事はやめても、 「昔とった杵柄、腕がうずうずする、道具も使わず錆ついては勿体ない」 ということで、一念発起、東寺の五重塔の模型を作ることを決心しました。
 この五重塔は寛永十八年(1641)先祖の作右衛門の手に成るもの、 敏雄師も、昭和四十二年の大修理に参画した、格別に縁のある塔で、それで選んだという。
 塔の実物は、高さ五十六mの国宝、先祖の絵図や自分の実測を基にして、 その1/30の設計図を作成して工作にかかった。
 材料は、昔に手に入れた木曽の官材の檜、よく乾き、 狂うことがない。まず一番下の基壇から、初重と進め、 順次に二重、三重と上へ層を重ねてゆく。 まず柱を立て桁を載せ、隅木を伏せ、肘木、斗拱を置き、垂木を納める。 この垂木が1/30では五mmもないくらいの太さで、それに勾配と反りがある。 厳密にいえば一本一本、寸法が違う。虫眼鏡的な細かい仕事でピンセットがいる。 この垂木が二千三百本入ったそうです。
 問題は屋根瓦。焼物では出来ず木を屋根の勾配に合わして刻み、 そして青く色を塗る。こうして五層を重ね、最後の頂上の九輪は、 下に露盤を伏せ、請け花、そして九つの輪を重ね、その上に水煙 をつけて出来上り、この水煙まで全部木の材で手作りです。
 五重塔の心柱は、初層から五層まで中心に通っていて、下の心礎には、上下左右にゆれるゆとりがもたしてあります。それが江戸期になると心柱を釣り鐘の様に、上から吊るして振子の様な工法がとられました。現存する東寺の五重塔も頂上の五層に登ると風の吹くときは立っておれない位、塔は動くそうです。五重塔は火事で焼けたことはあっても地震で倒れたことはない。塔の柱と桁、梁など主要材のホウズの差し口は、ぴったりでも、表から見えない奥には、ゆれ動きまた元に戻るだけの余裕が見てあるそうです。法隆寺の五重塔の修理の際に指導の工学博士は「鉄のボルトを使え」と、宮大工は「千年前の工人は釘一本使ってない」と、論になったことがあったそうです。とにかく百七十年前に菰野の藤造が教えを受けた高木家の伝統技能が連綿として受けつがれ、こうして目の前で見ることのできたこと、そして、このあと清水寺の三重塔を復原すると意気込んでおられます。