第268回

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糸引き娘 紅屋のみね女  文 郷土史家 佐々木 一
大正6年室山伊勢製糸場の全景
伊勢製糸  みねは明治二十八年三月二十一日、父南川権治郎、母いよ、の長女に生れました。家は菰野城のすぐ西、字門口にあって、紅花を作り、紅を商っていたので「紅屋」とよばれていました。
 その紅屋に跡取りがなく、宇治の山本勘左衛門という茶屋の三男善左衛門を養子にもらいました。宇治茶つくりの家に生れた善左衛門は、余り流行らない紅屋より、お茶屋に転業することを考えました。 天保二年(1831)に善左衛門は、実家の宇治からお茶師二人を招いて、伊勢の「釜茶製茶法」をあらため新しい宇治式の「焙炉」製茶を取入ることにしました。ちょうどこの頃、菰野藩においても、領内の水沢あたりに、お茶の栽培を奨励しにかかった年でした。
 紅屋では納屋を改造して、炉を新設して上質の茶を作り、菰野藩へも納めることになりました。幕末から明治の初めは、お茶は生糸とならび、輸出の花形産業でしたが明治も末頃、日露戦争のあとは不景気となり、お茶も輸出が不振となり、お茶屋の経営も悪化してきました。
 そこへ明治四十四年頃に、四日市から湯の山へ軽便鉄道が敷設されることになりました。線路はお城の中を西へ突き切り、紅屋の茶部屋へ、まともに当る計画でした。こうしたことで、父の権治郎は止むを得ず、南瀬古へ移ることを決めました。
 紅屋の娘みねは十七歳、そうした事情もあって室山の伊藤小左衛門が創業した伊勢製糸へ工女として勤めました。この製糸工場は明治七年に器械製糸をはじめ、同三十六年にはフランス式の大工場が建設されました。従業員は女子百七十人、男二十人の県下でも指折りの規模でした。工場にはみねの先輩の菰野出身の秦いを・住田たね・小林ちか・佐々木とく・矢田ふさらが勤めていて仕事の手ほどきをしてくれました。
 当時の女工の月給は最高級で四円五十銭、米一俵が四円五十銭の相場でした。その上繭から糸を引き出す量により割増し歩合給の支払いを受けました。幹部級の女工は大変な高給で、さすが、天下の伊藤製糸と人も羨むほどの花形女工でした。
 なかでも、このみねは、糸を引く技が巧みで「精良糸を作り」また「業務勉励につき」との理由で一年に四度の表彰を受け、そのつど褒賞金をもらいました。
 この頃の製糸工場では、そこに働く工女は、ほとんど寄宿舎で住みこみで八畳に四人ぐらいの寝起きの生活で、余暇に先輩から行儀作法や裁縫などを教えられました。
 良いこともあれば、また悪いこともあって、ことに集団生活では流行病に感染すること多く、若い娘さんは結核によく罹りました。このみねも大正八年に感染して菰野の家に戻り療養につとめましたがこの年の六月八日、二十五歳の若さで帰らぬ人となりました。
 この年の春二月に、八年の勤続と模範工女として、初心者指導の功績表彰を受けたばかりなのに。そして菰野茶の創始者の紅屋のひとり娘に生まれ、評判の器量良しでしたが、惜しくも病に倒れ、さてさて残念なことでありました。